白鳥正夫の
えんとつ山
ぶんか考
クスコは滅亡インカ帝国の名残 |
マチュピチュからの帰路、再びペルーレイルに乗りました。この列車は全席指定の1両で、アンデスの踊りのショーと特産のアルパカ製品のファッションショーが楽しめました。ショーを演じるのは、なんと乗務員です。約1時間半でオリャンタイタンポ駅に着き、バスでクスコの街へ。
クスコはインカ帝国の「黄金の都」の中心地です。15世紀、アンデス地方で隆盛を誇ったインカ帝国は南北5000キロにわたる領土を所有していました。スペインの征服者たちが神殿を破壊し、次々とスペイン風の教会を建てたのです。 マチュピチュと同じ年に世界遺産となったクスコの中心はアルマス広場であり、100年かけて建造した大聖堂の威容が目を引きます。サント・ドミンゴ教会はインカ時代コリカンチャと呼ばれる太陽の神殿の土台の上に建てられたのでした。教会を襲った地震にも、土台はひずみを起こさなかったという、インカの石組みの精巧さを物語る逸話が残っています。 市街から離れたサクサイワマンにも足を延ばしました。ここはインカ時代に政治や軍事、宗教儀式の場として使われた砦です。巨石を組み合わせ3層の要塞を建造していますが、石がぴったりとかみ合っているのです。さらにプーノでは海抜3890メートルに位置するティティカカ湖を訪ねました。この湖にあるウロス島はトトラと言う葦を積み重ねた「浮き島」でした。人間の知恵に驚かされました。 ペルーの旅は神秘に満ち満ちていました。とりわけマチュピチュはインカ帝国の要塞だったのか、聖都だったのか、多くの謎を秘め、その都市の終焉も未解明なことが、一層魅力を高めています。ペルー観光当局によると、遺跡を訪れる観光客は2009年には02年時に比べほぼ倍増し、約90万人が訪れたといいます。ピークは5-10月で、1日約1500人が訪れるとのことです。欧米人が多く、日本人も年々増加しているそうです。 文化庁が管理しており、遺跡内にはトイレが無く、ペットボトルの持ち込みも制限していました。大いになる観光資産になっているだけに、長期閉鎖で経済状態が懸念されます。ホテルや土産物など地元の人たちはさぞかし困窮していると思われます。来年の大統領選挙にフジモリ氏の長女ケイコさんが有力視されていました。マチュピチュなど世界遺産の観光資産の活かし方も争点になることでしょう。 |
上左■クスコとマチュピチュを結ぶペルーレイル 上中■帰路の車両内ではアンデスの踊りのショーも 上右■入山制限のあるワイナピチュの入り口 下左■ワイナピチュの頂上にある一枚岩 |
閉鎖直前のマチュピチュを歩く |
ペルーの南東部にあるマチュピチュへは、リマからクスコへ飛行機で1時間15分、空港からペルーレイルのオリャンタイタンポ駅へバスで約2時間、その先112キロの終着駅アグアス・カリエンテスまで1時間半の鉄道の旅。さらに専用バスで約30分、九十九折のイハラム・ビンガム・ロードを一気に400メートル上り、やっと入り口に至るのです。 クスコから現地へは大型バスで乗り入れられず、国家政策で開設した鉄道が一般の観光客の唯一のアクセスとなっています。このため今回のように、豪雨で土砂崩れによって鉄道が寸断されてしまうと孤立し、ヘリコプターによる救助騒ぎとなるのです。邦人旅行者も約70人が孤立し、アルゼンチン観光客や現地ガイドら5人が死亡したのです。 この時期は雨季で、私が訪れた時も小雨混じりでした。その数日前にも豪雨に見舞われたとのことで、鉄道と平行して流れるウルバンバ川には濁流が渦巻いていました。当初検討していた4日後の出発だと、まともに事故に直面しており、肝を冷やしました。鉄道の復旧は進んでいるようですが、アクセス道路の補修になお時間がかかりそうだと、伝えられています。 さて肝心のマチュピチュは、「幻の都」を捜し求めていたアメリカ人探検家のハイラム・ビンガムによって1911年に発見されたのです。標高2400メートルもの断崖絶壁の、わずか5平方キロの尾根に、15~16世紀インカ帝国時代に築かれた文明都市が存在していたのです。 いち早く1983年に世界遺産に登録されたマチュピチュ遺跡は、奥深いジャングルに守られ、スペインの侵略の手が届かず、何世紀もの間だれの目にも止まらず遺されていました。遺構はウルバンバ川から運ばれたという石造で、居住区域と農耕区域に分けられています。 居住区域内には庶民、聖職者、貴族の住居があり、主神殿や太陽神殿、コンドルの神殿、ピラミッド状の高台に造られたインティワタナと呼ばれる儀式的な施設、さらには陵墓や石切り場、水汲み場などの建築群が配置されています。一方、農耕地区には段丘を利用した段々畑や感慨施設などが備わっていました。農地管理人の住居跡もあります。 藁葺屋根が復元された見張り小屋まで登ると遺跡が一望できます。前方にワイナピチュ山がそびえています。観光パンフレットで目にするパノラマ光景が目の前に広がっていました。自然の丘陵地を活用した段々畑は幾何学的な美しさです。太陽を崇拝する建物群も見事に自然と融和しています。 天候がめまぐるしく変わり、雨の中、霧雨で曇れば、時折り雲間から陽光も射し、様々な風光を楽しめました。まさに「空中都市」と称されるだけあって、高台に立つと想像以上の別世界で、はるばる訪ねてきた値打ちがありました。 マチュピチュ観光は普通、2時間半-3時間半。私は麓のアグアス・カリエンテスに泊まる日程で、1日半をかけることができました。翌朝、遺跡や周辺の山々を一望できるワイナピチュ山へ登りました。この山は朝7時から午後3時の間だけ登ることができ、1日400人の入山者制限があります。 マチュピチュから標高差250メートルなのですが、急勾配の断崖が続き、随所にクサリが取り付けられています。あいにくの雨で足場は最悪でした。1時間半かけて登った頂上は大きな1枚岩で、視界もききませんでした。下山中に霞の間からわずかに望めた神秘的なマチュピチュ遺跡に慰められました。 |
■ナスカ地上絵を上空から観光するセスナ機 |
■難しい遊覧飛行からの地上絵の撮影 |
■10メートルを超すハチドリ(『ナスカ展』図録より) |
セスナ機でナスカの地上絵観覧 |
地球儀を見ればよく分かりますが、日本のほぼ裏側にあるペルーは遠いです。伊丹から成田空港を乗り継いでロサンゼルスまで約13時間半。ロスで約3時間待ち、リマへ空路約8時間半もかかりました。時差は14時間。日本と昼夜も逆になります。機内で仮眠しホテルに到着したのは午前2時過ぎでした。
ペルーに着いて、まずナスカの地上絵を観光しました。1994年に世界遺産に登録されていますが、その「ナスカ展」が2006年に東京の国立科学博物館で開催されていたのを鑑賞しました。会場内でバーチャル・リアリティの遊覧飛行の映像を見ていたのを覚えています。 現地はリマからバスで440キロ、パンアメリカンハイウェイをドライブすること約3時間半の道のりです。ナスカは太平洋沿いの漁港でした。この辺りの家には屋上に鉄骨が何本も突き出ています。ガイドの話だと、まず1階を建て、お金が貯まると、2階、3階へと上に建て増しするそうです。 ナスカの飛行場には、観光用のセスナ機が待機していました。30分も飛ぶと、機長の「右」「左」の日本語が発せられます。30度以上の角度で右に、左に旋回します。シャチ、クモ、サル、ハチドリ、コンドル、カモメ、サギ、イグアナ……。全体の形が十分に把握でないまでも、明らかにその形象が目に飛び込んできます。400平方キロもの広大な平原に壮大な地上絵が描かれているのです。 文献によりますと、6世紀ごろに描かれたとされる地上絵は、台地の表面を覆う暗赤褐色の小石を約20センチの幅で取り除き、下の白い砂を露出させる手法で描かれたようです。幅が約10メートルから、大きいものだと約300メートルもあります。ほとんど雨の降らない乾燥地だけに、残存したとみられます。 ペルー南部のこの大地に、こうした数々の絵模様が発見されたのは、1939年のことです。地上からでは巨大過ぎて不明なこの絵を、別の調査で上空を飛んだ学者が偶然に見つけたといいます。 その後、生涯を地上絵の調査研究に捧げたのがアメリカの女性学者のマリア・ライヘ博士です。「天文カレンダー」説を唱える彼女が建てた観測塔は、上空からもパンアメリカンハイウェイの近くに確認できました。この塔は地上の観光客に開放されているそうです。 それにしても大地をキャンパスにした巨大な地上絵をだれが、なぜ、何のため描いたのか、宇宙人説など諸説が飛び交うように、未解明なことが多いのです。この古代人からのメッセージに思いをめぐらせながら、ナスカの地を後にしました。 |
上■農耕地区の見事な段々畑 下■太陽の神殿の石組み |
上■クスコの中心にあるアルマス広場に面した大聖堂 下■精巧にかみ合わされたサクサイワマンの要塞岩 |
■高台から撮ったマチュピチュ遺跡。後方にワイナピチュ | ■ティティカカ湖のウロス島は葦を積み重ねた「浮き島」 |