白鳥正夫の
えんとつ山
ぶんか考

「えんとつ山を見てきた偉人・真鍋博」
白鳥正夫寄稿文 郷土の誇り
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 郷里・新居浜に大きな業績を遺した一人のアーチストがいました。日本を代表したイラストレーター、真鍋博さんです。21世紀の近未来の世界を描き続けたのに、21世紀をわずか2ヵ月残した2000年10月、68歳で他界されました。その人の名前を知らない世代が増えてきましたが、故郷の活性化に取り組む民間組織が今秋、市民らにその業績を伝える活動を展開します。 故郷のシンボルを顕彰しようと、えんとつ山プロジェクト実行委員会では、新居浜市との協働事業として、11月に企画展「えんとつ山を見てきた偉人」を開催する準備を進めています。かつてトレードマークの黒ぶちの眼鏡で全国的に知られた真鍋さんは、自然や人間に温かいまなざしに満ちあふれ、どこか懐かしさを感じさせる作品を発表し続けました。企画展を前に、クローズアップしてみました。
◇イラストレーターの草分け的存在

 1950年代に前衛的な油彩画を試みていた真鍋さんは、高度成長期の60年代、70年代に雑誌や書籍、新聞、ポスターといった印刷メディアの影響力にいち早く注目して、新たな創作の場として選び、当時なじみの薄かったイラストレーターという職業を今日のものとした先駆者です。

 私は朝日新聞大阪本社企画部時代の2004年、大阪・倉敷・東京で「真鍋博展」の企画から展示までに関わりましたが、同郷だっただけに宿命的とも思えました。亡くなった翌年、愛媛県美術館では急遽、回顧展を催しました。ちょうどその頃、私は旧知の愛媛県美の原田平作館長から、「遺族が他県での開催も要望されているのですが……」と、打診されたのでした。

 その年の秋、遺族と会い展覧会着手を約束したのでした。すでに大半の作品は愛媛県美に寄贈されおり、2002年には残りの作品や資料のほとんどが、県美と愛媛県立図書館に寄贈され、新たな展覧会構築の条件がそろったのでした。
 
 真鍋さんが生前、しばしば顔をのぞかせていたという東京ステーションギャラリーがいち早く開催を内定していただいた事は幸運でした。核になる会場が美術館で、担当の学芸員がついていただけることは、私たち新聞社の企画マンにとって心強いものです。

 その後、京阪百貨店と倉敷市立美術館も内定し巡回開催の体裁が整いました。しかし作品数が膨大で、その調査や写真撮影などに苦労しましたが、展覧会はこうしたプロセスに企画の醍醐味があります。アーチストのことが次第に解明されていく喜びもあります。とりわけ真鍋さんの日誌が遺されており、その日常生活が分かった時には驚きました。細かな字でぎっしりスケジュールが書き込まれてありました。一日一日を大切にして、次から次へ創作していたのでした。

  
     アトリエでの真鍋博さん
   (1997年西村満撮影
         「真鍋博展」図録から)

  
    愛媛県美術館での作品調査
                            
              大気は走り、地球は巡る                    日本万国博会場全景(1967年)
          (1971年 『旅』4月号口絵 日本交通公社)      
 
◇「未来は創るべきものだ」の信念

 1969年のアポロ11号の月面着陸成功、1970年の日本万国博は、私たちに輝く未来を提起しました。私自身、わくわくした未来像へのあこがれを憶えたものです。真鍋さんは、日本万国博覧会の三菱未来館の起案に参加し、ポスター、ガイドブックなどのイラストを手がけました。その後の高度成長下、各地で博覧会ブームが起こり、20年後、30年後の社会や生活の有り様を予測することが社会現象にすらなりました。こうした時代背景を受け、真鍋さんのイラストはもてはやされました。   

 科学技術の先行する未来でなく、有機的で神経や精神につながった未来。変わるべきもの、変えてはならないもの、変貌の早いもの、遅いもの、動かぬもの、それを調整し、それを前進させるのは人間だけだ。 未来を占ってはならない。創るべきものだ。  

 真鍋さんは旺盛な好奇心と機知を駆使して、実在しない道具や乗物、さらに都市を紙の上に描いて見せ、豊かで遊び心あふれる未来像を示すとともに、高度経済成長に伴う環境問題などの社会のひずみにも目を向け、ユーモアと風刺をもって独自のライフスタイルを提言し続けました。 しかし真鍋さんは単に時流に乗るだけでなく、「未来を占ってはならない。創るべきものだ」との信念を貫きました。真鍋さんの作品の真骨頂は、予測を超えて進歩発展する都市文明と、自然や本来的な人間のあり方との調和を求めております。

   
  数多くの作品に囲まれている真鍋博さん
  (1971年頃 『真鍋博回顧展』図録から)

  
    ピクニック・サイクル(1973年)
      家族三輪車の原画(1973年)     実際に製作した家族三輪車   
◇「夢の家族自転車」を製作展示

 展覧会では、八面六臂の活躍をし、20世紀を駆け抜けた真鍋さんの膨大な作品、書籍、資料の中から約300点を3つのコーナーに分けて紹介しました。まず「SF・未来学をテーマにした未来画」、次いで「ミステリーを中心にした本のイラスト」、そして最後に「万博グッズなどのデザインを中心とした仕事と自著の三つです。  
 
 未来画の分野では、SFマガジンの原画、星新一さんの本や表紙・挿絵原画などが展示。おなじみの『ボッコちゃん』は多くの人に愛されました。筒井康隆さんの『夜のガスパール』の挿絵の原画も一部紹介しました。また真鍋さんはアイザック・アシモフ、アーサー・C・クラーク、マイケル・クライトンの表紙も担当しています。夢のある未来から絶望的な未来まで、多彩な未来画が、今も新鮮で、懐かしく楽しめます。

 ミステリーを中心にした作品では、真鍋さん自身が「私の勲章」と語る、ハヤカワのアガサ・クリスティーの本があります。本屋で見かけた人も多いでしょうが、あらためて「こんな仕事をしていたのか」と注目してほしいと思います。『ミステリマガジン』の表紙も13年間にわたって手がけております。  

 デザインや本の仕事では、万国博覧会全景図原画や、自著、色鮮やかな絵本『エキスポ・ファンタジー』『星を食べた馬』の本や原画などもあります。真鍋さんは環境問題を考え、バイコロジーの活動をします。

 展覧会では『真鍋博の鳥の眼』(1968年)に描かれたの地図の上空から見た原画も見所でした。同時に『自転車讃歌』で発案された「家族自転車」を実際に製作し、特別出品しました。3人乗りで実際にペダルこげば動き、倉敷会場では多くの人が展示スペースを回り楽しみました。

 真鍋さんは、イラストレーターとしてあまりにも有名ですが、エッセイストとしても優れています。『歩行文明』(中公文庫)の末尾に次のような文章を記しています。

 人生80年といわれるが、それを時間数にすると、70万時間。60歳の定年まで働いても、労働時間は7万時間余り。働くことは人生の総時間の1割しか占めなくなってきた。 あと9割の時間をどう過すか、が問われるなかで、あたりまえのこと、普通の生活、日常生活がとても大切になりはじめている。生きていてよかった、と思える時間、価値ある時刻――時のデザインがより追求されるようになるだろう。歩くことの豊かさも、そんな日常性から追求していくべきだ、と思う。自然に、あたりまえに、日常として。

 鮮やかな色と繊細な線の「真鍋博の世界」は知れば知るほど奥が深いのです。郷里が生んだ天才アーティストをもっともっと知ってほしいと思います。

   
   『歩行文明』の表紙(1985年)

   
  『ミステリマガジン』表紙(1966年7月号)