白鳥正夫の
えんとつ山
ぶんか考

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◇戒律社会、イランの課題

 革命によって宗教が政治を支配する国となったイランでは女性はチャドル姿となり飲酒ご法度、快楽・世俗主義を排している。あの『千夜一夜物語』の舞台は、文字通り夢の世界となった。しかし「人は抑圧されればされるほど、独創的な手段で意思を表明しようとするものだ」とは、2005年にヒロシマ賞に選ばれたイラン女性芸術家のシーリーン・ネシャートさんの言葉だ。
  交通機関などは男女で分けられているとはいえ、女性の大学の入学者は60パーセントを超す。街中の洋装店ではファショナブルなドレスが並ぶ。中国と違ってインターネットが解禁されており、衛星テレビを見ることも黙認されている。アメリカを敵視する政治の方針とは裏腹に、国民生活の西欧化が急テンポに進んでいる。  
 イスラム社会の戒律は私生活主義が蔓延する日本にとって見習うべき教えも多分に含まれているのではなかろうか。観光地や街頭で多くの笑顔に触れ、一緒に写真を撮りたいと申し出てくるイラン人が多くとても親日的だった。イランと言えばイスラム宗教国、そして厳しい戒律と男女差別や抑圧の国、といった連想は単純すぎる。革命30年後のイランの動向に注目したい。

     
    戒律の国ならではチャドル姿の女性たち                イランの子供たちと筆者   
◇イマーム・ホメイニー廟

 イラン革命といえばホメイニー師の顔が思い浮かぶ。帰国前日にテヘラン郊外にある廟を訪ねた。地下鉄の最南端駅を降りると、ホメイニー師が眠る霊廟が見えてくる。廟は大きく建設途中だったが、正月とあって初詣での様に参拝者が詰めかけていた。男女別の入口を入ると一面に絨毯が敷き詰められている。奥まった大広間に格子戸で囲まれた一角に写真額が置かれた棺が安置されていた。  現地の紙幣にも使われているホメイニー師は政府批判を続け、国外追放処分を受けフランスに亡命するが、国外からも国王への抵抗を呼びかけ続けた。1979年に反体制運動の高まりで国王が亡命したのを受けて、15年ぶりに帰国を果たし、イラン・イスラム共和国の樹立を宣言し任期4年制の大統領の上に立つ最高指導者となった。1989年に86歳で他界したが、最期の言葉は「灯りを消してくれ。私はもう眠い」であったという。
 私たちがイランを去る前日の3月21日、ホメイニーの妻ハディージェ・サカフィーが93歳で死去したが、この廟に祀られるかどうかは不明だった。イランでは超保守派といわれるアハマディネジャド大統領の政治に不信感を抱く国民も多い。ホメイニー師の存在感はなお大きい。

     
    イランのカッパドキア、キャンドヴァン村                写真額が置かれたホメイニー師の棺   
◇米大使館はいま

 革命の1979年に米国大使館占拠人質事件があったことは、記憶に生々しい。アメリカが元国王を受け入れたことに、イスラム法学校の学生らが反発し、大使館を占拠し、アメリカ人外交官や警備員とその家族らを人質にした事件で、アメリカの救出作戦の失敗などを経て、イランは仲介国の働きかけなどでレーガン大統領の就任日に、444日ぶりに人質は解放された。  
 事件の現場を見たいとガイドに申し入れた。「バスで通過しますが、車を止めたり、写真は撮れない」とのことだった。市内地図で見ると、宿泊していたホテルから約30分の距離なので、翌朝散歩がてら訪ねた。広い敷地を一周したが、至る所に監視カメラが設置されており、撮影禁止の看板も掲げられていた。大使館の塀にはアメリカを誹謗する落書きがそのまま放置され、建物は政府の管理下にあった。勝手口からナンが運び込まれていたのを目撃した。警備員のためのものと思われた。アメリカと国交回復の日が来るのだろうか。  

◇ぺルセポリス

 ぺルセポリスは今回の旅のハイライトであった。地中海世界からインドに至る広大な領土を支配したアケメネス朝ペルシャの都で、紀元前6世紀後半にダレイオス1世が建設した宮殿群だ。紀元前331年、アレクサンドロス大王に攻め落とされ廃墟となった。古代オリエント文明を代表する遺跡で1979年に世界遺産に登録されている。
 12万5000平方メートルもの遺跡には、かつての壮大な王宮の痕跡をとどめる建造物が散在している。あらゆる民族を迎え入れるという意味を持つ「万国の門」は4本の石柱が残り、一対の牡牛像と人面有翼獣身像に圧倒される。ペルシャ王に謁見するためにやって来た様々な民族の姿を刻んだレリーフの階段を挟んで「謁見の間」や「百柱の間」などが往時のスケールを偲ばせる。帝国の繁栄を支えた「王の道」や「カナート」と呼ばれる砂漠の灌漑施設にも驚かされた。
  「私は王の中の王」と宣言したのはアケメネス朝を開いたキュロスⅡ世だ。征服したそれぞれの地域の伝統、しきたり、言語、宗教を尊重し、寛容な政策で統治し、巨大な異文化共存国家を形成した。そして諸国、諸部族から貢物を携えた使節団を迎え、忠誠を誓わせる政治を行い、世界で初めての人権宣言を発した。そうした歴史を通じて自らの伝統に誇りと自信をもつイランは、革命後もアラブとは一線を画した統治を続けている。


       ペルセポリスの「万国の門」
     
    世界遺産のイスファンのイマーム広場                鳥葬が営まれていたヤズドの沈黙の塔   
白鳥正夫イラン旅行記 平成21年3月 
革命30年のイランを歩く
◇新年「ノウルーズ」

 「ノウルーズ」とは「新しい日」との訳で、イランでは太陽が春分点を通過する時刻を新年とし、今年は3月20日午後3時13分に迎えた。私たちがテヘラン行き国内便の出発を待つタブリーズ空港でカウントダウンが始まり拍手に包まれた。イスラム化する以前からの年中行事で街中は祝賀気分にあふれた。

 公共の場はもちろん、ホテルロビーや街角にも新年の縁起物が並べられていた。ペルシャ語でSの頭文字が付いた7種で、赤い金魚や鏡、イスラムの聖典クルアーン。さらに大麦を発芽させた小さな鉢などだ。正月は商店もほとんど休みで、家族や親戚が集まって新年を祝う。日本で失われつつある家族の絆は深い。

 年の瀬のあわただしさは日本と同じで、バザールは買い物客でごった返していた。世界有数の産油国とあって、ガソリン代はリットル約10円そこそことか。このため自転車を見かけない程の車社会。道路は車であふれ、路地まで渋滞が続き排気ガスを撒き散らしている。都心部から望める4000メートル級の雪山も年々かすむ。ただ正月は外出が少なく道路も空いていた。


   「ノウルーズ」で飾られた新年用の縁起物
     
       テヘラン都心から雪山を望む                アーチが美しいスィー・オ・セ橋のライトアップ   

今春、イスラム革命から30年を迎えたイランを実質10日間訪ねた。朝日新聞社の整理部に籍を置いていた当時、連日のように革命前後のニュースを追い、その変化を報じる見出しを付けた思い出がよぎる。革命の翌年には8年間に及ぶイラクとの戦争に突入した。イラクに加担したアメリカはそのフセイン政権を崩壊させるなど激動の中東にあって、はるか7000年前から悠久のペルシャ文明の歴史を刻んできたイランへの旅は好奇心を掻き立てた。ブッシュ前米大統領によって「悪の枢軸」とか「中東の火薬庫」とレッテルを貼られたイランだが、実際に訪れてみると大方の日本人の先入観を覆すものだった。その印象記を綴ってみた。