白鳥正夫の
えんとつ山
ぶんか考

知覧を訪ね、特攻の痕跡を垣間見る

   知覧―、この美しい語感の名を持つ土地は、若い命を散らせた特攻の最前線基地でした。6年前、知人が『知覧 6月3日の邂逅』というタイトルの本を出しました。この本を読む前、百田尚樹さんの小説『永遠の0(ゼロ)』でも取り上げられていた特攻。特攻はIS(イスラム国)の自爆テロにも通じます。いずれも大義あっての行為ですが、自国防衛のために戦った特攻隊員と無差別攻撃のテロ犯は同列にできません。しかし先に書いたアウシュヴィッツ同様、人が人を殺す「戦争の狂気」がなせる業です。そんな思いを胸に3月中旬、知覧を訪ねました。特攻の痕跡を垣間見たに過ぎませんが、二つの本を絡め、伝えておきたいと思います。

元特攻兵の封印していた物語を小説に

   知覧は太平洋戦争が始まった1941年、陸軍飛行学校の分校として開設されました。本土決戦となった沖縄戦における陸軍の特攻作戦は、1945年3月から7月まで続いたのです。知覧を始め、宮崎県の都城、さらには統治下の台湾などからも出撃していますが、知覧基地が本土最南端だったということもあり、戦死した陸軍の特攻隊員1036名のうち、知覧からは439名にも及んでいます。

 冒頭の『知覧 6月3日の邂逅』(2010年、文芸社刊)を書いたのは、高校時代まで同じ学校に学んだ同級生のご主人で、新居浜市船木在住の西山慶尚さんです。西山さんは東京教育大学理学部を卒業し、愛媛県内の高校の理科の先生を勤められました。定年退職の2年前の1999年から文芸同人誌『海峡』に参加し、精力的に作品を発表し続けています。

 2009年秋、奥さんから8つの短編を収めた本の序文を作家の立松和平さんにお願いしていただけないか、との依頼を受けました。親交のあった立松さんは、私の懇請に応じ、4日後に序文を仕上げられました。ところが立松さんはその翌年2月に急逝されたため、私たちにとって遺稿のようでもありました。この顛末は、当サイト2011年11月1日に詳しく書いております。

 標題となった作品は、知覧を訪ねた主人公が、かつては特攻隊の兵士で出撃したもののエンジンの故障と偽って生還してきた男と出会い、その男の消息を追う物語です。文末に、登場人物はフィクションと断っていますが、主人公は筆者自身であり、特攻兵ではありませんが、飛行機乗りで戦死した兄を持ち、知覧での出来事などもほぼ事実を元に書かれたと思われます。

 元特攻隊員は戦後、苦難を乗り越え会社の経営者となりますが、上官や仲間を裏切った贖罪の念を引きずって生きていました。同じ宿に泊まって、封印していた極秘体験を告白し、主人公の宿代も払って早朝に姿を消したのでした。お礼をしたいと主人公は、元特攻隊員の所在を捜します。彼は元上官の名を名乗っていたこともあって掴めなかったのですが、やっと住んでいた所を訪ねた時には、すでに亡くなっていました。どんな思いで毎年知覧の地を踏んでいたかなど真意は霧の中ですが、戦争は生き残った者にも、心の傷を背負いながら生きていることを、深く重く伝えていました。 筆者の西山さんはあとがきに、「あれだけの犠牲と悲劇をもたらしたあの戦争のことも、やがて人々の脳裏から完全に忘れ去られてしまうでしょう。(中略)私が戦争のことを書く理由のひとつはここにありました。極めて断片的ではありますが、あの戦争のことを記憶にとどめている者の一人として、それを書き記すのは、私のささやかな務めでもあると思ったのです」と記しています。

 ちなみに立松さんの序文(抜粋)には、「書くということは、過去の命の軌跡をたどることであり、その軌跡を未来へとつないでいくことである。……書くことは、心を浄化する。生きるためには、書かないでいられないのである」と、書き留めていました。

基地から出撃し散った、若き特攻隊員

 知覧を訪ねるなら花見の季節と聞いていたのですが早すぎましたが、サクラ花のように儚かった特攻隊員のことを思いやりました。敷地内の一角に戦闘機が置かれていました。近づいてみると説明文があり、一式戦闘機「隼」Ⅲ型甲をモデルに復元されたものとありました。

 「隼」は太平洋戦争時、陸軍の主力戦闘機で、知覧の特攻基地からは九七戦闘機に次いで多く120機が飛び立っています。2007年に公開された映画「俺は、君のためにこそ死ににいく」(製作総指揮・脚本:石原慎太郎、監督:新城卓)の撮影に使われた「隼」とのことでした。

 会館周辺には護国神社や1955年に建立された知覧特攻平和観音堂があり、浄財や篤志家によって建てられた特攻勇士の像「とこしえに」(1974年設置)と母の像「やすらかに」(1986年設置)が向かい合うように建っています。一帯にはいくつかの慰霊碑が設けられ、次第に数を増やした灯籠が並び、鎮魂の雰囲気を醸しだしていました。

 会館は1985年から2年かけ工事費5億円を投じ建設されました。延べ1600平方メートルの広さで、837平方メートルが遺品室に充てられています。中に入るや、目に飛び込んでくるのが特攻隊員の遺影です。どの顔も10代と20代の青年の凛々しい顔立ちです。その下の展示ケースには、死を覚悟した特攻隊員が、家族や友人に宛てた遺書や遺言、遺品などが所狭しと並べられていました。

 こうした特攻隊員の遺影1036柱、遺書などの遺品が約4500点を数えるそうです。展示品のほとんどは、知覧特攻平和会館初代館長で元特攻攻隊員の板津忠正さんが集めたものといいます。残念ながら館内の展示品は全て撮影禁止でした。

 なかでも四式戦闘機「疾風(はやて)」I型甲は実物です。特攻機を援護する直掩(ちょくえん)・誘導などを任務としていましたが、沖縄戦では特攻機としても使用されたのでした。知覧基地からも4機が出撃し、2機が未帰還となっています。屋外にもあった一式戦闘機「隼」Ⅲ型甲は館内にも展示されており、いずれも映画配給元の東映より知覧町へ譲渡された実寸大の精巧レプリカです。

 もう一機展示されているのは、零式艦上戦闘機五二型丙で、これも実物。鹿児島県薩摩川内市の甑島500メートルの水深約35メートルから1980年に引き上げ修復したもので、損傷が激しく機体前部と主翼及び主脚のみ現存する無残な状態ではあるが、往時を偲ばせる機体です。

 会館に隣接した杉林の中に、「三角兵舎」が復元されていました。敵機から見つからないようにと、壁はほとんどなく屋根が直接地面に置かれているような形をしています。内部は当時の様子がそのままに保存・展示がされており、当時の兵舎生活の様子を偲ぶことが出来ます。この兵舎の中で隊員たちは、日の丸に寄せ書きを書いたり、故郷へ送る遺書や手紙を書いたりしていたそうです。


■西山慶尚さんの著した『知覧 6月3日の邂逅』

■両側には桜並木が続く知覧特攻平和会館への道

■一式戦闘機「隼」のレプリカ

■1955年に建立された知覧特攻平和観音堂

■向かい合って建つ特攻勇士の像「とこしえに」と母の像「やすらかに」

■慰霊碑

■慰霊碑

■次第に数を増やした灯籠が並ぶ

■工事費5億円を投じ建設された知覧特攻平和会館

■所狭しと並べられた特攻隊員の遺影。下のケースには遺書や遺品 (知覧特攻平和会館のパンフレットから転載)

■海中から引き上げられた無残な零式艦上戦闘機五二型丙 (知覧特攻平和会館のパンフレットから転載)

■杉林の中に、復元された「三角兵舎」

■兵舎の内部。ここで寄せ書きや故郷への手紙を書いた

■長崎鼻から眺めた美しい開聞岳
特攻と自爆テロ、ともに戦争や戦闘の狂気

 知覧を訪ねると、戦闘機や兵舎に目を奪われます。しかし胸を打つのは死を覚悟して死の直前に綴った遺書です。特攻隊には遺骨はなく、残されたのは遺書のみ。会館に展示された遺書は一日かけても読めないほどです。母への感謝が多いが、婚約者や恋人へのメッセージもあります。そうした無念の心情が痛いほど伝わってきます。

 当然ながら、「国(天皇)のために特攻す」と書かれた遺書もあり、最期まで勇敢な意志を誇示しています。それが真情であったのか、特攻によって自身が死んでいく理不尽な現実に対し、国のためという言葉によって自分や家族に対し、言い訳や慰めにしていたのではなかったのかとも思えます。

そんな一篇を、買い求めた図録冊子『陸軍特別攻撃隊の真実 只一筋に征く』から引用します。

 
  • 御母様、いよいよこれが最後で御座います。
  •   
  • いよいよ一人前の戦闘操縦者として御役に立つときがきたのです。
  •   
  • 御優しい、日本一の御母様。今日トランプ占をしたならば、御母様が一番よくて、将来、最も幸福な日を送ることが出来るそうです。(中略)
  •   
  • 短いようで長い十九年間でした。いまはただ求艦必沈に力めます。(中略)
  •   
  • 日本一の御母様、いつまでも御元気で居て下さい。(後略)
  •         
  • 宇佐美輝夫 少尉(福島県出身、19歳で沖縄周辺にて戦死)

 何という切ない言葉の羅列でしょう。戦後、平和になった日本は、特攻隊員を祖国を守るために、自らの命を捧げた英霊として顕彰します。残された戦友や家族らは、そう信じなければ、納得がいかなかったのではないでしょうか。 こうした特攻をテーマに百田さんが『永遠の0』(2006年、太田出版刊)を出し、ベストセラーになりました。映画化もされた話題作です。ストーリーは、大学生の弟と出版社に勤めの姉が、祖父から自分達の実の祖父は終戦間際に特攻で戦死した海軍航空兵だと明かされます。

 それから6年後、司法浪人の弟は、フリーライターとなった姉からの依頼もあって、実の祖父について調べようと決めのです。実の祖父を知る者9人が存命であることを知り訪ね歩きます。臆病者とさげすまれていた一面、凄腕の零戦乗りでもあった実の祖父像は、調べるほど謎に包まれるのです。

 戸惑いつつも弟と姉は、国のために命を捧げるのが当然だったと言われる戦時下の日本と、そこに生きた人々の真実を知ることになります。「絶対に妻と子のために生きて帰る」と言っていた実の祖父は、終戦直前に特攻を志願します。その後、結末までの展開は、驚愕の連続で、読者をぐいぐい引き寄せます

 二人の孫に真実を語った祖父は、基地で実の祖父と知り合います。ともに特攻に出撃の日、発動機が不調の搭乗機との交換の申し出があり、引き返すことに。そして終戦となり、命を永らえ、命の恩人であった実の祖父の妻子と暮らすのでした。西山さんの物語の特攻隊員はエンジンの故障と偽って生還しましたが、特攻の真実は、不退転で出撃したものの、実情は複雑だったに違いありません。

 『永遠の0』のストーリーは、結末に進むにつれ意外などんでん返しの連続で、読者を引き込んでいきます。小説の醍醐味といえる構成の妙とともに、「カミカゼアタック」の章があり、登場人物によって「特攻がテロリストなのか」のやり取りに言及している件(くだり)に注目しました。

 「出撃の日に大いなる喜びの日と書いた特攻隊員がいます。また天皇にこの身を捧げると書いた者もいます。そんな彼らは心情的には殉教的自爆テロのテロリストと同じです」との指摘に、「自爆テロの奴らは一般市民を殺戮の対象にしたものだ。無辜(むこ)の民の命を狙ったものだ。特攻で狙ったのは無辜の民が生活するビルではない。爆撃機や戦闘機を積んだ航空母艦だ」と反論します。

 確かに特攻と自爆テロでは、自らの意志で志願し、命を賭して決行しますが、軍隊や宗教という特殊な組織による洗脳がまったく無かったとは言い切れません。その現実は、英雄でもなければ、狂人でもないのです。あえていうなら、自らの生涯を意味深いものにしようと悩み苦しむ人間です。

 かつて行き詰った日本の軍隊の究極の作戦として考えられた特攻ですが、ISによる自爆テロは日常化しています。昨今の平和日本では、集団的自衛権が成立し、平和憲法下で専守防衛のはずの自衛隊が他国との交戦の可能性も現実味を帯びてきました。特攻も自爆テロも、高邁な精神に裏打ちされるものではなく、戦争や戦闘の狂気の手段であることを胆に銘じておきたいものです。

 知覧を飛び立った特攻隊員が、機上から見納めた富士山のように美しい開聞岳を、私は薩摩半島の突先にある長崎鼻から眺め、平和がどれほど大切なことかの思いを深くしました。