白鳥正夫の
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ぶんか考

郷土美術館閉館し、新居浜市美術館全開へ

   新居浜市の美術活動を支えてきた市立郷土美術館が、35年間の歴史に終止符を打ち3月末で閉館です。すでに昨年7月にあかがねミュージアムが開館しており、その核となる新生の新居浜市美術館が稼動していて、まさしく新旧交代し全開します。新居浜にとって、装い新たな施設がどのような役割を担っていくのでしょうか。開館記念「新居浜-日本 回想の新居浜美術 1890‐2015」は、質量ともに豊富な展示内容で、その趣旨や意気が今後の展開に期待を持たせるに十分でした。4月17日まで開催中の展覧会「住友コレクションの近代日本画―関西邦画展覧会回顧―」を紹介し、美術館の今後についても触れておきたいと考えます。

老朽化していた郷土美術館で平山郁夫展

   まず幕を閉じる郷土美術館は、私にとって忘れがたい出来事がありました。このサイトの2011年11月に詳しく記していますが、「次世代への伝言(メッセージ) 平山郁夫展」の開催に関わったのでした。平山画伯が2009年に他界し、私は翌年から尾道市瀬戸田の平山郁夫美術館の要請で企画展コーディネータを務めています。生前、朝日新聞社の仕事を通じご指導を受けていた私は、2004年に新居浜文化協会55周年の記念事業で「平山郁夫講演会」のお手伝いをした経緯もあり、平山展の橋渡しをさせていただいたのでした。

 展覧会には幅が5メートルを超す大作「天かける白い橋」(2000年)をはじめ、「白い橋 因島大橋」、「因島大橋 夕陽」(いずれも1999年)などの画家の故郷・瀬戸内を描いた代表作と、シルクロードを描いた名作の「流沙浄土変」(1976年)や「アンコールワットの月」(1993年)、さらに「バーミアン大石仏を偲ぶ」(2001年)と「破壊されたバーミアン大石仏」(2003年)など約100点が出品されたのでした。

 ただ郷土美術館は1951年に建築の旧市庁舎を改造して、1981年に開館していて老朽化が進んでいました。直射日光の当たる展示室があり、温湿度管理や照明や展示ケースなど不備があって、美術作品の保護の立場からは劣悪な環境でした。

 平山展開催時には新ミュージアムの建設に向けた諸準備が進められていて、動向に注目していました。その後、総合文化施設の建設をめぐって賛否の署名活動があったことも聞いていました。全国の地方自治体でハコモノ行政の維持管理の負担なども問われています。しかし工都・新居浜にふさわしい文化施設は急務でした。

 新美術館は、博物館法に規定された登録博物館(美術館)として機能することにより、諸条件をクリアし国宝や重要文化財も陳列できるのです。これに伴い他館から作品を借用し、これまで新居浜市では紹介できなかった作品も鑑賞が可能になったのです。

 展示面積も市民ギャラリーを含め1000平方メートの広さと、5メートルの天井高を有しています。このため独自の企画展や他館との巡回展、地域の文化活動の発表の場などにも広く活用できるのです。

住友コレクションの近代日本画の名品15点

 今回の「住友コレクションの近代日本画」もその一環で大阪市立美術館が所蔵する巨匠たちの名品がずらり出展されています。1943年に企画・開催された関西邦画展覧会は、住友本社の後押しで実現し、当時関西で活躍の日本画壇の重鎮20人を選び競作したのでした。「住友の聖地」と位置づける新居浜では、住友と美術の関わりを継続的取り上げる意向で、その第一弾です。

 そもそも大阪市立美術館の建設計画が持ち上がった大正期、住友家の第15代家長が天王寺茶臼山にあった本邸敷地を美術館の建設・講演用地として寄付したのでした。1936年に開館した大阪市立美術館の発展を願って、関西邦画展覧会が開催されたのでした。

 当時の展覧会での画家の選定や実施を担ったのが、私も所属していた朝日新聞大阪本社企画部だったことが記録に残されています。泉屋博古館分館が東京にオープンしたのを記念して2004年、朝日新聞社も共催してリバイバルで開かれています。こうしたゆかりの回顧展を初めて郷里で鑑賞できることは感慨深いものがありました。

 2004年に発行された図録には、「作家のことば」も再録されていて興味を引きました。その作品と文章のいくつかを抜粋して紹介します。まずこの展覧会のチラシの表紙を飾るのが、上村松園(1875-1949)の「晩秋」(1943年)です。松園は「秋もいよいよ深み母はそろそろ障子のつくろいをやるとき、私はよくいろいろの紙型を切らされたもので、母はそれを丹念に切り張りしたことがまざまざと記憶に残っている」と、思い出を綴っています。

 桜を描いた作品も2点あります。福田平八郎(1892-1974)の「桜」(1944年)は、取材を山桜に求めたが真盛りを過ぎていたので「花を断念して、太い桜の幹三本に新芽を配することに決定した」と記されています。

 北野恒富(1880-1947)の「夜桜」(1944年)は、嵐山に一泊して楽しんだ思い出を描いていますが、「京の舞妓も時局の流れに添うてなくなるそうな、とそんな噂を聞かされ、一筋に惜別の筆が動いたと云えるかも知れない」と、寄せています。

 肖像画も2点並べて展示しています。一つが菊池契月(1879-1955)は大阪にちなんだ作品として「北政所」(1943年)を描いたということで、「豊満な、非常に穏やかな相貌」「聡明さを表面に現さなかったところに、この人のよさが感じられ」と表現し、人物像を捉えています。

 もう一枚が、中村大三郎(1898-1947)の「山本元帥像」(1943年)は山本五十六の戦死をラジオで聞いて、作画の動機になったと明かし、「完成後、元帥の御遺族を東京に御訪ねし、親しく御霊前に額づき得たことは、何か此作品の終りを完うすることが出来た感を深くした」と、仰々しく認(したた)めています。

 堂本印象の「如意輪観音」(1943年)は、「如意輪観音を製作したい時にこの機会を得たので、拝写したのですが、表現して見ると思うようにはゆきませんでした」と謙遜しています。

 このほか小野竹喬の「秋陽」や山口華楊の「風」。榊原紫峰の「朝靄」徳岡神泉の「若松」などが一堂に展示されていて壮観です。


■7月に開館2年目を迎えるあかがねミュージアム

■上村松園「晩秋」(1943年)作品はすべて大阪市立美術館蔵

■福田平八郎「桜」(1944年、図録より)

■北野恒富「夜桜」(1944年)

■菊地契月「北政所」(1943年)

■中村大三郎「山本元帥像」(1943年)

■堂本印象「如意輪観音」(1943年)

■展示会場でのギャラリートーク

■小野竹喬「秋陽」(1943年)

■徳岡神泉「若松」(1943年)

■菅楯彦「千槍将発」(1944年)

■梥本一洋「出潮」(1943年)
市民らが享受し、いかに活用するかが成否

 「住友コレクションの近代日本画」のような展示は、郷土美術館では開催が難しいことは前述しました。新美術館の役割の一つは、これからも京阪神や東京の美術館の所蔵する名品を借用し、身近に鑑賞できることです。

 さらに故郷を離れて暮らす私にとっても大きな喜びは、開館記念展「新居浜-日本 回想の新居浜美術 1890-2015」のような独自の特別企画展の開催です。このタイトルを聞いた時、正直言って驚きました。台風の影響もあって開会の翌日に時間をかけて鑑賞しました。春翠と号した住友吉左衛門家の経済支援で育まれた日本の近代洋画の原点と、新居浜の洋画の軌跡を探った本格的な展示内容に圧倒されたのでした。

 日本の洋画壇の黎明期に活躍した田村宗立や黒田清輝、藤島武二、浅井忠、小出楢重、小磯良平らとつながる画家たちの代表作を集めていて、見ごたえがありました。また若い日、新居浜で学んだ北代省三ら「実験工房」に注目し、新居浜出身でわが国を代表するイラストレーターの真鍋博らの作品も網羅し、大いに刺激を受けました。

 さらに「未来を担う子ども達のための施設」というコンセプトに即して、子どもたちに気軽に美術に親しんでもらいたいと、子ども向けの解説を設けたり、パンフレットの作成に取り組んでいたことも特筆に価します。期間中の入場者数は約1万人ということで、成果があったといえます。

 この記念展の図録を図書刊行会から書籍として発売したことも全国に発信する意義がありました。その中で山野英嗣館長が「新居浜市総合文化施設が目指すもの」と題して、次のような文章(抜粋)を書いています。

  本施設では、美術館部門に「市民ギャラリー」を併設し30余年の活動を行ってきた

  郷土美術館での展覧会や各種事業を引き継いでいく態勢も整っている。

  そして、多様な表現を、いわば混沌としたかたちで提示することこそ、本館の使命に他ならない。

 私は新聞社で定年前の10年余、美術や音楽、スポーツなど文化企画に携わり、定年後もアートに関わっていました。それだけに、この立派な施設が名実ともに機能し、「新生・新居浜」の核となってほしいと願っています。

 しかし、こうしたハコモノは一時的な建設費だけでなく、維持管理、運営に多額の費用が継続的にかかります。市当局やミュージアム関係者だけでなく、市民が支えていかなければなりません。

 大阪では、市立近代美術館構想から30年有余、用地が確保されていながら未だに着工も出来ていません。その後の市財政の悪化とともに、「膨大な税金を使ってまで美術館が必要なのか」といった市民の意識にも要因があります。近世の大阪の芸術文化は、住友家の支援や、篤志家の貴重なコレクション寄贈など「官より民」によって発展してきたのでした。現在では文化行政に力を注ぐ京都や神戸に後れを取り、地盤沈下が際立っているのです。

 新居浜にとって、装い新たなミュージアムが、まず賑わいの場として、大いに市民交流に役立ててほしい。そして豊かな精神を培う場として、新しい芸術に触れ刺激を受けるとともに、郷土の歴史や文化活動などの情報を知りうる場であってほしいと期待してやみません。「新生・新居浜」の核として機能するならば、市民にとって税金の負担以上に見返りがあるといえます。一にも二にも、市民らが享受し、いかに活用するかに成否がかかっているのではないでしょうか。