白鳥正夫の
えんとつ山
ぶんか考

心に沁みる別子銅山の風景「幻聴」 ―山中賢一写真展

   故郷の皆さん、とりわけ「えんとつ山倶楽部」の皆さん、「幻聴」という聞きなれないタイトルの写真展が、新居浜市美術館で開かれているのを、ご存知でしょうか。もちろん分かりやすいサブタイトルも添えられています。「山中賢一写真展 別子銅山300年の歴史が語るもの」です。「幻聴」―、なぜこんな難しい言葉を使ったのでしょうか。一枚一枚の写真に撮影者の思いが込められているからです。「銅山(やま)が発する声なき声に耳を傾けよう」といった思いは、見る者の心に沁みます。写真展は4月17日までです。何枚かの写真を紹介しますので、この機会にぜひ足を運び、「幻聴」の世界に浸ってみてください。入場は無料です。

青春を過ごした故郷の山を、再びカメラで追う

   山中さんは1943年、新居浜市中萩町の生まれです。東京の新聞社カメラマンを経て、1994年からフリーになります。高知県吾北村(現・いの町)に移住し、写真店を経営しながら、ライフワークの写真に関わる活動を続けています。この間、吾北村を拠点に「写真文化宣言の村」を提案し、「記録の財産づくり」をキャッチフレーズに「村民全員参加の写真展」を毎年開催するなどの取り組みも、その一例です。

写真家としても、アラスカの北極圏をはじめアメリカのネバタ砂漠、カナダやパレスチナ、東アフリカ、エリトリアなどに取材し、厳しい環境に住み力強く生きる人々を撮っています。これまで銀座富士サロンや新宿ニコンサロン、愛知万博エリトリア館、パレスチナガザ市、さらに高知市や広島市など各地で個展を展開しています。現在、日本写真作家協会(JPA)会員です。

世界各地を撮り歩いた山中さんにとっての原風景は、故郷の地にあった別子銅山でした。新居浜市立工業高校山岳部の3年間、週末ごとに銅山峰に登っていました。「月曜の早朝、飯ごうメシを腰にぶら下げて登校するのが常でした」と述懐します。なんと高校生活の200日以上を、別子の山で過ごしたのでした。東平の山道で、お婆さんに「取りつかれたね」と声をかけられたそうです。

山中さんにとって、「銅山峰のてっぺん、心地よい風」は忘れられない青春の思い出となったのでした。その一方で、銅山の採掘に従事し必死に生きた人たちが居たことを、心に刻んでいたのです。美しい山と苛酷な労働は、理想と現実の乖離でもあったようです。そうした矛盾の世の中と向き合って生きようと新聞社に進むことになったのです。

やがて写真家をめざし、夢をかなえた山中さんですが、再び別子の銅山(やま)と向き合うのです。高校時代から半世紀、週末には高知から、今度はカメラを携えて通い詰めているのです。「写真生活の終止符を山に戻り、あの銅山峰の記憶を呼び起こしたい」との決心だったのです。

自選30点の展示、作品に寄せる作家の切なる言葉

 展示作品は自選の30点です。本人に聞くと、これまで撮りためた作品は約4500カットと答えていますが、おそらく数え切れないほど膨大なフイルムが残っていると思われます。デジタルカメラ全盛ですが、山中さんの作品は、67フォーマットのカメラで撮っています。しかもカラーではなく、モノクロームです。

 山中さんの撮影意図は、単に風景を収めるのではなく、人の営みや歴史を感じさせる場所と場面を追い求めているのです。同じ場所に何度でも足を運びました。季節や時間帯、日の当たり具合などで、仕上がりが異なるからです。こうした山中さんのこだわりは、いかに真剣に別子銅山の風景を捉えようとしたかを物語るものです。

 会場入り口に展示されている一点は「蘭塔場哭く」です。縦2メートル40センチ、横3メートルもの大きさに引き伸ばされた作品は迫力があります。見渡す別子の峰々の手前に見える岩山の石囲いが蘭塔場です。

 かつて後方の左斜面には無数の焼窯が白煙を吐き、右斜面には製錬関係者の鉱山住宅が重なる様に建っていました。開坑以来、銅山が繁栄した陰で尊い生命の代償もありました。1694年に発生した大火では、132人もの焼死者が出て設備の大半が焼失するという大惨事の記録が残されています。蘭塔場ではこうした犠牲者の御霊を合祠し、供養してきたのでした。

 会場の作品の多くには作家の言葉が添えられています。それも活字ではなく味わい深い手書き文字なのです。

   山が哭く 木々が哭く はるか頭上岩稜あたり 雪まじりの風が哭き続けている

   蘭塔場の冬 風雪に耐えし人達たちを思い 我も泣くなり

 作品のほとんどが70×90センチでプリントされていますが、額装まで含めると90×120センチの大きさです。それより大きな作品は5点あります。「蘭塔場哭く」と同じ大型作品は「日本一の山岳鉄道」です。唐谷三連橋を下から見上げている構図で、別子ならではの風景です。この作品の作家の言葉です。

   初雪が残る唐谷 耳の奥がジンジンと鳴る谷の中 僅かばかりの空の下

   ゴトゴト鉄橋を渡る汽車の音か 冬色のテンが首をかしげて 足の上を走り去る

   私は山と同化するほど ここに居る

 作品の撮影地は、近代化産業遺産の端出場水力変電所や東平貯鉱庫、第一・第三通洞、東延暗渠、そしてなじみの旧広瀬邸、星越駅舎、山田住宅、2003年には四阪島にも渡って、日暮別邸や職員住宅、商店街など人々が眺め、働き、暮らした痕跡を取り上げています。そんな一枚の東延暗渠を撮った「タイムトンネル」には、山中さんの思いが綴られています。

   闇のむこう 生き生きと銅山(やま)に向う人の姿あり 百有余年の彼方から

   呼びかけてくるものは 壁にこだまする息づかい 幾十万の赤レンガの一つひとつが呼びかけてくるのか

   小さな水音 微かな鉱石の匂いと共に 明治の風が吹き抜けて行く


■「蘭塔場哭く」(2003年、蘭塔場)

■「日本一の山岳鉄道」(2002年、唐谷三連橋)


■「タイムトンネル」(2004年、東延暗渠中)


作家の言葉から「私の別子は、未だ終わらない」

 会場でお会いした山中さんは、「これらの作品の背景に、何万人という人たちが働き生きてきたのです。その声は聞こえませんが、その声を届けたいと思いました、発する声に耳を傾けてください」と強調していました。

 山中さんに、快心の一点を選んでいただきました。別子村の接待館のあった場所で撮った作品で、「三味の音」と題されています。

   塀の外は秋の風 銅山(やま)の男のため息にも似て 接待館の夜は更けて

   毎夜聞こえる三味の音 のぞいてみたいかのた打ってフジカズラ

 高い天井と広い空間。山中さんにとって、あかがねミュージアムの開館を待ち望んでいたのです。アーティスト・トークは終わりましたが、その後も毎日のように高知から会場に来ています。

 一年に数度しか帰郷しない私にとって、うれしい空間と時間を過ごせました。故郷出身の写真家に出会い、別子銅山のお膝元で生まれ育った記憶を呼び戻す作品の発見があったからです。そんな記憶を記録した山中さんに感謝と拍手です。

 この展覧会の主催者である新居浜市美術館は、開催に寄せて次のような挨拶文を記しています。

 別子銅山は、近代化産業遺産群として、近年大いなる注目を集めています。しかし山中氏は、こうした華々しいイメージからは一定の距離を取り続け、特別な存在である別子の山々、近代化産業遺産群を豊かなイマジネーションに基づく独自のスタイルで撮影されてきました。「銅山から何を感じ、何を思ったか。」山中氏があますところなく表現した作品の数々をご高覧いただければ幸いです。

 最後に、山中さんの今回の写真展にかけた情熱と伝言です。

   蘇った濃い緑の中に身を置き、全身で山の気配を感じ、

   声なき声に耳をそばだてている。

   どこへ行っても誰もいない。

   なのに……いつも語りかけてくるのは誰!何!

   ―――私の別子は、未だ終わらない。


■「三味の音」(2004年、接待館)


■快心の一点「三味の音」の前で山中賢一さん

■「氷の仏」(2008年、第一通洞北口)

■「先見の明」(2004年、東端索道中継所)

■「唸る」(2004年、端出場水力発電所)

■「不夜城の電源」( (2003年、第三変電所)

■写真展の会場

■「祈り」(2003年、広瀬家持仏堂 靖献堂)

■「天まで昇るか」(2003年、鹿森社宅跡)

■「まどろむ」(2003年、日暮別邸寝室)