白鳥正夫の
えんとつ山
ぶんか考

宿願のアウシュヴィッツに見た「戦争の狂気」

   新年に6度目の年男を迎えた私は、ほぼ戦後70年の歳月を生きてきました。この間、平和ニッポンの恩恵に浴してきましたが、世界では戦争や紛争・テロなどのニュースは後を絶ちません。朝日新聞記者になって最初の任地が広島でした。原爆ドームと道路を隔てて向かい合う広島商工会議所の記者クラブに籍を置いていたため、毎日のようにドームを眺めていました。その原爆ドームが1992年、負の世界遺産に登録されました。それから数年後、アカデミー賞を受賞した『シンドラーのリスト』を見たのです。舞台となったアウシュヴィッツは、1979年に「負の世界遺産」に登録されていました。いつの日か現地を訪ねてみたいといった宿願を今年になって果たせました。忘れてはならない歴史の記憶を記しておきます。

「シンドラーのリスト」の場面を実見

   アウシュヴィッツとビルケナウは、アドルフ・ヒトラー率いるナチス党政権下のドイツが第二次世界大戦中に国家をあげて進めた人種差別的な抑圧政策により、最大級の惨劇が引き起こされた強制収容所です。日本を発つ前、現地の気温は零下10度以上と聞いていました。厳冬の季節に行ってこそ、現実感があるように思われました。もちろんポーランドのワルシャワをはじめいくつかの観光地も巡ったのですが、最大の目的地だったアウシュヴィッツにしぼって報告します。

出発前に『シンドラーのリスト』をビデオで見直ました。主人公のオスカー・シンドラー(1908-1974)は実在のドイツ人実業家でナチスの党員でした。収容したユダヤ人の虐待や惨殺に見るに見かね、ユダヤ人を雇用し、一説には1200人を虐殺から救った、とされています。この実話をオーストラリアのトーマス・キニーリーが執筆し、ユダヤ人でもあるスティーヴン・スピルバーグが映画化したのでした。一連の経過をドキュメンタリー風に撮っていて、モノクロの映像がより迫真性を高めています。もちろん演出や脚色しているでしょうが、「この地で何があったのか」を想像できました。実際に現地を見て、映画の場面がいくつも検証できました。

予習と言えば、『アウシュヴィッツ博物館案内』(2005年、凱風社)を読みました。著者は現地で働く唯一の日本人公式ガイドの中谷剛さんです。1991年から居住し、97年に公式ガイドの資格を得ています。その著書のあとがきに「僕と同世代の人やもっと若い日本人の多くは、何の苦労もなく手に入れたためか、自由や平和の尊さや民主主義を忘れがちだ。僕は、被害者としても加害者としてもアウシュヴィッツ強制収容所に直接関わらなかった日本人の一人として、同胞に伝えられることがあるのではないかと考えた」と綴っています。

ナチス犯罪の痕跡を留める数々の証拠

 第二次世界大戦によって国土の大半が焦土と化したポーランドの中で、奇跡的に破壊を免れた歴史遺産の都市クラクフに泊まって、早朝からアウシュヴィッツへ。西へ54キロ、バスで約1時間の距離です。JTBのツアー添乗員が「日本人のガイドでしたらいいのですが」と繰り返し告げていました。名前を明かさなかったのですが、私は中谷さんと知っていましたので、著書を持参していました。しかしポーランド人ガイドでした。中谷さんは別の日本人ツアーの担当で、途中で出会ったので挨拶をしました。中谷さんのアウシュヴィッツ観を聞けず残念でした。

収容所の入り口だったゲートの上部に標語が掲げられています。ドイツ語で「ARBEIT MACHT FREI」―働けば自由になれる、という意味です。しかしこのアルファベッドをよく見ると、ARBEITの「B」の字が上下逆になっています。看板を作ったのはユダヤ人で、せめてもの抵抗だったようです。自由どころか、まさに地獄への入り口だったのです。

4メートルもある二重の有刺鉄線の柵には6000ボルトの高圧電流が流れていた。敷地内には地下室と屋根裏のあるレンガ造りの28棟が整然と並ぶ。ここに連れてこられたユダヤ人はナチス親衛隊員によって選別されます。労働力にならない老人や妊婦、赤ん坊はガス室へ。残った人々は男女とも丸坊主にされ軍需工場や石切り場で一日12時間以上働かされました。虐待や陵辱は日常茶飯事だったのです。

収容された建物のいくつかを公開し、ナチスの犯罪の痕跡と、その証拠を展示しています。廊下の壁をずらり囚人たちのポートレートが埋め尽くしていました。後年はあまりの数に写真撮影もされませんでした。持ち物や衣類はすべて没収されます。名前や住所の書かれたトランクや衣服、靴などがうず高く積まれています。遺体から取り外されたメガネや義足・義手、杖などもあります。人の髪の毛も集められ、カーペットなどの織物や布団の綿に代用された。三つ編みのまま切り取られた髪もあり痛々しい思いがしました。

強制収容所は、ソ連軍により解放されました。無条件降伏のドイツは直前に証拠隠滅を図ったのですが、間に合わなかった建物や遺物が、歴史の証拠となりました。毒ガスの「チクロンB」の缶も展示されています。シャワー室を装ったガス室や遺体の焼却場も見学できました。

屋外には集団絞首台や、収容所の元所長が処刑された絞首台もあります。政治犯や死刑囚が入れられた棟の中庭には、彼らが銃殺された「死の壁」があり、献花されていました。思わず手を合わせたのでした。冬には酷寒の地で死を待つ日々を過ごした収容者たちを偲ぶ。あの「シンドラーのリスト」の場面が現実に行われていたことが浮かび、戦慄を覚えました。

クラクフには数多くの収容所があり、犠牲者は100数十万人に及ぶと言われています。現存するアウシュヴィッツの後、約2キロ離れたビルケナウに向かいました。この時季、一面雪に覆われていましたが、140ヘクタールの広大な敷地に300棟以上のバラックが建っていたそうです。現存するのはその一部でした。

鉄道の本線から続く引き込み線が監視塔のある「死の門」をくぐって敷地内へ入り込んでいます。貨車に詰め込まれたユダヤ人らが送り込まれた様子が蘇ります。「この門を入ると、お前たちの出口は煙突だけだ」との逸話が残されています。線路の尽きた場所に石碑があり、その脇に20ヵ国の小さな慰霊碑が建っています。いかに多くの人々が犠牲になったかを、物語っていました。

ここは自由に見て回れ、いくつかの棟を覗きました。蚕棚のような木造の簡易ベッドや、間仕切りも無くを見ただけでも、苛酷な収容生活が生々しく伝わってきます。最後に監視塔に登って一望した。『シンドラーのリスト』でも印象深い光景が広がっています。表現しがたい寂寥感に覆われました。


■アウシュヴィッツ収容所の入り口の標語

■4メートルもある二重の有刺鉄線

■整然と並ぶレンガ造りの収容棟

■廊下の壁を埋め尽くす囚人たちのポートレート

■高く積まれた義足・義手

■毒ガスの「チクロンB」の缶も展示

■そのまま残された遺体の焼却場

■銃殺された「死の壁」の一部
永遠に忘れてはならない人類の歴史の記憶

 二つの収容所をほぼ3時間かけて回りましたが、当時のことを考えると寒さも感じませんでした。私にとって一生忘れられない場所となりました。ヒロシマとアウシュヴィッツの悲劇から約70年しか経ていません。第二次世界大戦がもたらせた「戦争の狂気」としか言いようがありません。この惨劇は忘れてはならない人類の歴史の記憶であり、そのためにも繰り返し伝えていかなければならないと痛感しました。

100歳で逝った映画監督の新藤兼人さんは『新藤兼人・原爆を撮る』(新日本出版社)の「あとがき」にかえて――に、短編小説「蟻」なる一文を寄せています。その中で、「ポール・ティベッツは、広島の上空に達したとき、望遠鏡をのぞいた。蟻が忙しく駆けずり回っていた。かれはふり向き、原子爆弾投下係の部下に合図を送った。ボタンは押され、原子爆弾は投下された」との寓話を紹介しています。その一発の原爆は一瞬にして約14万人の命を奪った。被爆後も合わせると犠牲者は40万人を超すと推計されているのです。

ナチスによるユダヤ人や戦争捕虜の虐殺は、その3倍もの数だ。人間を虫けらのように扱ってきた罪は深い。しかし救いもある。私が現地を訪れている時、ドイツやアメリカからの若者の姿も見かけた。ポーランドの学生には収容施設の見学が教育の一環として実施されている。日本の若い人にもぜひ訪れてほしいものだ。 アウシュヴィッツ4号棟の入り口に次の言葉が掲げられている。

「歴史を記憶しないものは、再び、同じ味を味わわざるをえない」 このメッセージは、人類の犯した取り返しのつかない罪を深く心に刻む。


■収容所の元所長が処刑された絞首台

■ビルケナウ収容所の「死の門」をくぐって敷地内に続く引き込み線

■穴が開いただけの粗末な便所

■監視塔から見たピルケナウの光景