白鳥正夫の
えんとつ山
ぶんか考

戦時体験を版画や彫刻で表現し戦争を告発

今夏、熊本で「浜田知明のすべて展」

 自らの戦時体験を彫刻や版画作品に投影し続ける老作家がいます。熊本市在住の浜田知明さんです。今年98歳を迎える現在も創作意欲は衰えていません。戦後70年の節目の年、熊本県立美術館では8月1日から9月13日まで特別展「浜田知明のすべて」を開催します。銅版画や彫刻をはじめ油彩画、スケッチ、デッサンなど初期から近作まで360点もの出品で、まさに全貌展です。「戦争とはどのようなものなのか」「戦争とはいかに愚かなことなのか」―。声高に反戦を叫ぶのではなく、作品に託した浜田さんの思いを取り上げます。

核戦争の脅威を暗示、時代への警告

 私が浜田さんを知ったのは、朝日新聞社で企画を担当していた1995年、戦後50年記念企画「ヒロシマ 21世紀のメッセージ」展でした。出展した浜田作品は、広島市現代美術館所蔵の「ボタンB」(1988年)です。35.5×51.0センチの小さな銅版画ですが、メッセージは重いものでした。

 作品の構図は、核のボタンに手をかけようとする頭巾を被った男の背中のボタンを押そうとしているへらへらとした真ん中の男。ひときわ大きい硬い表情の男が、前の男の後頭部に付けてあるボタンを押そうとしています。最後にボタンを押す決定を下す大男の頭上にはきのこ雲が描かれている。それは一人の権力者の意思によって引き起こされる核戦争の脅威を暗示しているかのようだです。

 浜田さんはこの作品について次のようなコメントを寄せていました。

 モチーフについては、殊更解説の必要はあるまいと思う。今や人類の存否はこのボタンひとつにかかっていると言っても過言ではない。核の不安の上に辛うじて保たれている平和。現代の危機をどのように表現すればよいのか、長い試行錯誤の末に、私なりにこのような作品に辿り着いた。

 2年後には彫刻でも「ボタンを押す人」を発表しています。米ソの冷戦構造は終焉したとはいえ、核をめぐる緊張は北朝鮮をはじめとして、現在もなお黒い影を投げかけています。銅版画の「ボタンB」は、核による戦争の構造と恐怖を冷静にとらえており、彫刻の「ボタンを押す人」は、一見ユーモラスな造形ながら国際社会を風刺する効果も高めています。

 1996年には「浜田知明の全容」展に関わり、数多くの作品を目にすることができました。この展覧会は朝日新聞東京企画部が仕立て、私は伊丹市立美術館の担当デスクとして参画しました。会場に来られた浜田さんと親しく懇談でき、作品について直接解説していただける機会に恵まれたのです。この展覧会では、200点を超す版画と彫刻が出展されました。

 代表作「初年兵哀歌(歩哨)」(1954年)が印象に残りました。暗い塹壕の中、ひとりの歩哨が銃を喉もとにつきつけ、足の指で引き金を引こうとする構図でした。骸骨のような頭をもった歩哨の眼から、一筋の涙が頬を伝ってこぼれ落ちようとしています。過酷な軍隊から逃れるには自ら命を絶つしかない苦悩は、自殺のことを考えて生きていた作家自身の姿でもあったのです。

 「毎日、毎日なぐられた。ほっと自分に返れるのは、狭い便所の中と、夜、一人で歩哨に立っているときぐらい」と、浜田さんは著書に書いていますが、戦時中の凄惨で不条理な体験は、創作活動のテーマとなったのです。


■01彫刻作品に取り組む浜田知明さん(2010年、熊本市内のアトリエで)

■02「ボタンB」(1988年)

■03「取引」(1979年)

■04「初年兵哀歌(歩哨)」(1954年)
戦争体験を出発点に普遍性の作品

 浜田さんは1917年、熊本市郊外の御船町に、教育者の次男として生まれます。東京美術学校で油画を専攻し1939年に卒業後すぐ応召され、熊本歩兵連隊に入隊しました。翌年中国大陸へ派遣され、43年に除隊されるも、44年再び入隊し、伊豆七島の新島で軍務につきました。20歳代の大半を軍隊で過ごしたのです。

 作家としてのデビューは第二次大戦の終戦を待たねばなりませんでした。戦後、浜田さんは郷里熊本に帰り、県立熊本商業学校の教員をしながら作品制作を手がけます。しかし作家として自立をめざし、1948年に東京へ出て自由美術家協会に所属して作品発表の機会をうかがいます。

 最初はモノクロームの銅版画を表現手段に選んだ。白と黒で作り出す深い明暗こそ最適だった。やがて60年代半ばから、版画の枠を超え立体による具象的に表現する彫刻へと、表現世界を広げていきます。青春時代を軍隊で生きた体験が、人間の愚かさや弱さ、社会の不条理を直視する画家としての出発点となりました。人生観も芸術表現も、戦争体験と切り離せなかったのです。

 1950年代に「初年兵 哀歌」シリーズなど銅版画制作で注目を浴び、53年にサンパウロ・ビエンナーレへ出品します。64年から65年は滞欧し、フィレンツェ美術アカデミー版画部名誉会員となり、89年にはフランス政府からシュバリエ章を受賞しています。

 さらに2007年にはイタリアのウフィツィ美術館が版画19点を永久保存されることになり記念展が開催されている。最近でも2012-13年にニューヨーク近代美術館で、2014年にはルーブル美術館ランス分館で作品が展示されています。いまや戦後日本を代表する版画・彫刻家であり、国内以上に国際的に高い評価を得ているのです。

 私は「浜田知明の全容」展以来、時代に寄り添い、風刺とユーモアもある作品に興味を覚えると同時に、人間への深いまなざしに魅かれたのです。1997年以降、熊本を訪れた際に2度ご自宅を訪ねました。その後、何度か手紙のやり取りをさせていただいています。穏やかな表情で語り、丁寧な字で書かれた手紙をいただきましたが、内に秘めた創作への意欲の激しさに感銘を受けました。


■05「初年兵哀歌(風景)」(1952年)

■06「飛翔」(1958年)
時代を超え痛烈なメッセージ

 その後、各地で開かれた展覧会を注目してきた。東京のヒロ画廊、大阪のギャラリー新居などで2005年に開かれた「浜田知明新作彫刻展2000-2004」には、「悩ましい夜」(2000年)「冷たい関係」「病院の廊下で」(いずれも2001年)「かげ・見えない壁」(2002年)など、新たな挑戦を確認することができました。

 2010年に神奈川県立美術館葉山で開かれた「版画と彫刻による哀しみとユーモア 浜田知明の世界展は画期的でした。版画173点、彫刻73点に油彩画やデッサン・スケッチ、資料など総数約330点に及びました。

 展示の最後の章に「初期油彩と最近のデッサン」があり、「自画像」や「寺院」(1949年)などの油彩とともに、2008年の作品「夜行軍、雨」と「夜行軍、山を行く砲兵隊」の2点が出品されていました。従軍中に脳裏に焼きついた光景をイメージして描いたデッサンです。一貫してゆるぎない創作姿勢を物語っていました。

 新作といえば、昨年秋には熊本県立美術館で「浜田知明の新作彫刻」展も鑑賞しました。95歳で制作した「杖をつく男」(2012年)が初公開されていました。老いる自分の姿を重ねた自刻像です。寡作ですので、ほとんどの作品を見てきましたが、初めて見る作品もいくつかあって「生涯芸術家」のすさまじさに驚嘆した次第です。

 驚きが芸術の命であるかのように、すぐれた芸術家は、日々起きる事象を肌で感じ、時代)の目撃者となり、鑑賞する者へ作者の意図を伝える作品に仕上げます。そしてその時代を鋭く観察し、先見し、人間社会の普遍的なものを見出していくものです。

 自らの戦争体験を基に戦争への憎悪と平和への願いを版画や彫刻に託した浜田さんは、人間の持つ心の闇や残酷さを銅版画で見事に表現したゴヤのように、時代を超えて痛烈なメッセージを発する作家です。いま、改めて浜田さんの作品に目を向けると、重い主題を作品に投影しつつも、おぞましく、どこかユーモラスで哀れな姿として描かれた人物たちに、深い共感を覚えます。

 浜田さんは、次のように主張しています。

 人間は社会的な存在だ。だから、私は社会生活の中で生じる喜びや苦悩を造形化することによって、人々と対面したいと思う。そして、抽象では感じは伝えられても、言いたいことは伝わらない。人に訴えるには主題を持ち、具象的に表現するしかない。


■07「アレレ…」(1974年)

■08「杖をつく男」(2012年)