白鳥正夫の
えんとつ山
ぶんか考

戦後70年に思う 訴え続けたい「戦争は滅びだけ」
 今年もヒロシマとナガサキでの原爆祈念の日、そして終戦記念日がめぐってきます。「平和ニッポン」では8月に限って、戦争のことを問い直す年中行事になってしまった感すらします。戦後70年の節目の年でもあります。私自身に戦争体験はありませんが、日常のテーマとして「戦争」を考えてみましょう。

語り継ごうヒロシマの悲劇を

 昭和19年8月14日生まれの私の人生は、ほぼ戦後70年の歳月に重なります。四国の新居浜出身で、明治40年生まれの父親は召集され、満州やマニラ戦線に出兵しましたが、無事帰還しました。父は戦地のことをあまり話しませんでした。しかし過酷な軍隊生活に耐え、生きて妻子と暮らせる日々を心の中で念じていたといいます。父は先祖が遺したわずかな田畑を受け継ぎ、会社勤めをやめ百姓に精を出しました。太陽とともに働き尽くめの生涯を84歳で閉じたのでした。

 そんな父の姿を見て育った私は、60年安保と70年安保のすさまじい学生運動にものめりこまず、新聞社に職を得ました。この間、ベトナムでの米軍の枯葉剤作戦などに心を痛め、ベ平連活動には関心を寄せ、小田実の書籍などを読み、デモにも参加したことがあります。父の姿を思い描く時、平穏な日常がどれほど幸せなことかを痛切に感じました。しかし一方、ベトナム戦争での米軍の枯葉剤攻撃などの惨状を知るほどに、平和を得ることの厳しさも理解したのでした。

 朝日新聞社に入っての初任地が広島です。原爆ドームと道路を隔てて向かい合う広島商工会議所の記者クラブに籍を置いていたため、毎日のようにドームを眺めていました。経済を担当していましたが、「爆心地付近から十数体の遺骨」とか「旧住友銀行広島支店入り口に刻まれた死の影を移設」などの被爆に関する特ダネを書いた思い出がよぎります。

 帰省時に持ち帰った私の書いたこれらの新聞記事を、父は色褪せても大事に手元に置いていました。そして死を待つ床で、「戦争は絶対あかん。お前を新聞社にやれて、ほんとに良かった」と、ぽつり呟いたのが忘れられません。

 私は編集から企画に籍を置き、新聞記事を書く編集から遠のきました。でも戦後50年企画として「ヒロシマ21世紀へのメッセージ」の展覧会を開催し、ヒロシマをテーマとした映画製作にも取り組んだのでした。映画は日の目を見なかったのですが、新藤兼人監督との交流が続き、100歳で他界した映画人生を本にすることができました。「核廃絶までピカドンは語り継ぎ、ヒロシマは生き証人となって戦争の愚かさを問いかけなければならない」―。新藤監督が私に遺した言葉です。

 古希を過ぎた私は、新藤監督の年齢まで生きられそうもありませんが、父の没年に近づいています。とっくに新聞社を定年になった私は、どれほど戦争と向き合い、戦争の悲惨を伝えられてきたのか、大いに悔いが残っています。

 戦後日本の平和は、戦争放棄の憲法と陸地で国境を接しない島国によって守られてきたと信じています。国際情勢はシリアやアフガニスタン、ウクライナで内戦が続き、「イスラム国」の勃興など深刻な事態が続く。時の政権は「積極的平和主義」と称して、集団的自衛権を閣議決定し、秘密保護法を施行し、ODAの他国軍仕様を解禁しました。自衛隊が軍隊になる道をたどっているのではないでしょうか。


■01人類史上初の原子爆弾で広島を覆ったキノコ雲(松山上空から米軍撮影)以下3枚の写真は、広島平和記念資料館提供

■02被爆直後の広島産業奨励館(原爆ドーム)周辺

■03全身火傷で治療を受ける被爆男性念資料館を訪れる修学旅行校生ら

■04原爆ドーム訪れた修学旅行校生ら
世界の戦地にも目を向けよう

 定年後の私は、タイのカンチャナブリーまで出向き、映画『戦場にかける橋』の舞台や、ベトナムのハノイ、ボスニア・ヘルツェゴビナのサラエボなどの戦跡を訪ね、その地であった悲劇をネットで語り継ぐささやかな活動などを続けています。

カンチャナブリーはバンコクから北西へ約130キロ、ミャンマーとつながるクウェー川(クワイ川)に沿う町ですが、第二次世界大戦時、日本軍が大量の連合軍捕虜や強制連行のアジア人たちの過酷な労働によって1943年に完成させた泰面鉄道の拠点となりました。

当時、インド方面へ戦線を拡大しようとした日本軍と、それを阻止しようとする連合国軍との間で全長250メートルの鉄橋をめぐって死闘を繰り広げたのでした。イギリス人捕虜も協力し完成した橋がその直後に英国軍によって破壊される過程を描いたのがアカデミー作品賞を受賞した『戦場にかける橋』です。

泰緬鉄道の建設は、険しい地形と劣悪な労働環境、さらには戦局維持のため急を要したこともあり、4万5000人もの犠牲者を出したとされます。この悲惨な歴史を伝えるべく捕虜収容所を再現したJEATH戦争博物館があります。粗末な竹で造った小屋内には、日本軍の拷問を描いたスケッチなどが展示されていました。

このほか戦争の記憶をとどめる第二次世界大戦博物館や泰緬鉄道博物館もあり、捕虜として犠牲になった連合軍共同墓地と日本軍が建てた慰霊塔もありました。そして「死の鉄路」とさえ言われる泰緬鉄道は、現在もナム・トクまで80キロが運行されています。クワイ河に架かる鉄橋は歩いて渡ることも出来、観光客であふれていました。

いかに戦争時の行為とはいえ、日本国から十分な謝罪や補償もなく年老いてゆく元捕虜たちは、物見遊山の日本人観光客らを横目に「日本を許せない」と憎しみを募らせていると聞きます。私たち日本人にとって、忘れてはならない実相を知り、戦争の悲惨さを語り継ぐことの大切さを実感しました。

一方、「アドリア海の真珠」と称されるクロアチアのドブロヴニクは、いち早く1979年に世界遺産に登録されたのですが、1991年のクロアチア独立とともにクロアチア領となったことにより内戦が起こりユーゴスラビア連邦軍の攻撃を受け、多くの歴史的建造物が破壊されます。山頂からのアドリア海と旧市街は絶景でしたが、ここでも破壊されたロープウェイ駅が放置されたままでした。この山頂から旧市街へ砲弾の雨が降ったとのことで、内戦のすさまじさに心が痛みました。

近隣のボスニア・ヘルツェゴビナのサラエボに立ち寄りました。サラエボは1984年に冬季オリンピックが開催され、世界の脚光を浴びたのですが、その7年後の1991年に内戦へと突き進んだのでした。犠牲者は1万人を超えたそうで、街の多くの建物には銃痕が残り、戦争がそれほど遠い過去のものでないことを物語っていました。

「戦争には、勝ちも負けもない。滅びがあるだけだ」。死ぬまで叫び続けたいものです。


■05映画『戦場にかける橋』の舞台となった旧泰緬鉄道のクワイ河鉄橋

■06捕虜たちの労苦で出来た木製の橋げた

■07粗末な竹で造った戦争博物館は、かつての捕虜収容所を再現

■08日本軍が建てた慰霊塔

■09アドリア海とオレンジ色の屋根瓦が美しいドブロヴニクの風景

■10破壊され放置されたままのロープウェイ駅

■11ドブロヴニクの城壁からみた内戦で瓦礫となッタ建物跡

■12サラエボ市内で銃痕が残る建物が散在する街