白鳥正夫の
えんとつ山
ぶんか考

故郷・新居浜の図書館で講演します

【講話の趣旨】

 シルクロードの「天山回廊」が世界文化遺産に登録された。「富岡製糸場と絹産業遺産群」と同時期で、日本の産業近代化の象徴である「絹産業」とともに、歴史の興亡を経てきた「絹の道」は、「絹」が紡いだ東西文化の懸け橋として、世界から注目されている。

 そもそも「絹の道を世界遺産に」と着想し、口火を切ったのは、ほかならぬ日本画家でユネスコ親善大使であった故・平山郁夫さんだ。国連文化遺産年の2002年12月に中国の西安で開催されたユネスコ・シルクロード国際学術シンポジウムで提唱したのだった。。

 今回の世界文化遺産への取り組みは、中国が主導しているが、将来的にはシルクロードの世界文化遺産登録は、さらに西方の「交易の道」であった地中海地域へつながっていくのは確実だ。東に延長させて、日本の沖ノ島、太宰府を経て奈良に至る「仏教伝播の道」の登録への可能性も秘めている。

 今回世界文化遺産に登録された「天山回廊」は、7世紀に玄奘三蔵が仏教の経典を求め長安(現在の西安)から天竺(インド)まで往復3万キロを17年かけて踏破したルートにも重なる。その玄奘を追想し、出世作「仏教伝来」を描いた平山さんは168回もシルクロードを旅した。

 朝日新聞創刊120周年プロジェクトで「シルクロード 三蔵法師の道」に取り組んだ私は、先達の志とロマンに想いを馳せて、定年後も含め17回も旅を重ねている。その体験的シルクロードの旅を紹介する。 

 世界文化遺産になったことで、新たな懸念は観光開発に拍車がかかることだ。「富岡製糸場」に、登録後どっと人が押しかけている。「天山回廊」には遺跡などが含まれる。美しいものや珍しい事物ではないだけに、観光の対象にしてはならない。

 同時にシルクロードは歴史の興亡を重ね、現在もアフガニスタンやシリア、トルコで内戦が続き、中国の新疆ウイグル自治区では民族の独立紛争が頻発している。世界文化遺産を契機に、今後は「平和と国際交流の道」にしていくべく、関係国のみならず訪問者も自覚すべきだ。

 アジアとヨーロッパを結ぶ大動脈が、人類共有の普遍的価値を持つ文化遺産であると同時に、人類悲願の国際平和の象徴としての役割を担ってこそ、真の価値がある。

 別子銅山記念館で開催の「2014図書館まつり」の一環として、11月23日(日)午後2時から午後3時半まで「世界遺産・シルクロードを平和の道に」のタイトルで、お話します。場所は同館多目的ホールで、参加費無料です。申し込みは電話(32-1911)でもOKです。多数ご参加ください。(チラシ参照)

 講演のテーマは、日本で18番目(自然遺産4件も含む)となった「富岡製糸場と絹産業群」と同時期の今年6月、世界文化遺産登録されたシルクロードの「天山回廊」です。私は10月末に『シルクロード現代日本人列伝』(三五館)を著し、その経過を詳しく記述しています。この方も別項で紹介します。

 23日の講演では、私がシルクロードに関わるようになった経緯や、シルクロードの興亡の歴史、世界遺産となった今後、さらにはシルクロードを旅した玄奘三蔵の精神を汲み国際貢献に尽くす日本人がいることを伝えます。後世に継承する文化財保護や国際交流、地道な平和活動を実践している先達の活動を通じ、生きることの「真の意味」とは、についても言及できればと思っています。


■「2014図書館まつり」のチラシ
【講話の項目】

・世界遺産になったシルクロードの概要

・21世紀になぜ玄奘三蔵が注目されるのか

・玄奘三蔵と平山郁夫、平山作品に見るシルクロード

・体験的シルクロードの旅、そのルートの解説

・シルクロードを平和の道に 


■01大雁塔
シルクロードの起点とされる長安(今の西安)の大慈恩寺にそびえています。玄奘三蔵ゆかりのスポットです。2014年に世界遺産に登録された(筆者撮影)

■02天山山脈
キルギスタンと中国の国境に連なる氷河に覆われた天山山脈。左側の平坦部が玄奘が越えたとされるベデル峠(『三蔵法師のシルクロード』1999年、朝日新聞社より)

■03高昌故城
中国新彊ウイグル自治区のトルファンにある7世紀に栄えた都の高昌故城の空撮写真。世界文化遺産にリスト含まれた(『三蔵法師のシルクロード』1999年、朝日新聞社より)

■04交河故城
高昌故城の副都。断崖の上に築かれ交河故城の空撮写真。ここも世界遺産に(『三蔵法師のシルクロード』1999年、朝日新聞社より)

■05キジル千仏洞
外国からの探検隊が壁画を剥ぎ取り荒廃したキジル千仏洞。近年、日本からの寄付金もあって修復され、世界文化遺産に登録された。手前の銅像は、キジル出身の鳩摩羅什(筆者撮影)
【講演に寄せて】

 今年3月に大東文化大学で開催された国際シンポジウム「玄奘三蔵とシルクロード・敦煌・日本」での私の研究発表が、近く水門(みなと)の会の『水門』に上梓されます。なお水門の会は、歴史学、文学、言語学、民俗学などジャンルを超えた諸学問の研究会です。以下は、その内容を引用(一部改稿)致しました。

 玄奘三蔵とシルクロード、その現代的意義

  はじめに

 シルクロードはユーラシア大陸を横断し、アジアとヨーロッパを結ぶ大動脈だ。紀元前2世紀から紀元16世紀にわたって長距離貿易と文化交流を担った輸送路で、中国西域から炎熱のタクラマカン砂漠周辺を縫い、酷寒の天山山脈やパミールの高嶺を越え、中央アジアの草原を経て、古代オリエントからローマへとつながる壮大なルートだ。

 そのシルクロードの一部、「天山回廊」が2014年に世界文化遺産に登録された。そして「天山回廊」は7世紀、玄奘三蔵が真の仏法を求めて長安(中国・西安)から天竺(インド)まで一路西へ、西へとたどった道である。玄奘は、往復約3万キロの道を17年の歳月をかけ目的を成就した。そして持ち帰った経典をさらに18年も費やして翻訳した。その般若心経は日本でもっとも布教し、親しまれている。日本に仏教や文物を伝えたシルクロードと、玄奘の果たした役割は、21世紀の現在も失われていない。

  一 世界文化遺産になったシルクロード「天山回廊」

 シルクロードでは21世紀も戦火が絶えません。アフガニスタンやシリアでは内戦が続き、自由に往来が出来ません2014年6月、カタールの首都ドーハで開かれたユネスコの第38回世界遺産委員会で「富岡製糸場と絹産業遺産群」と同時に、シルクロードの「天山回廊」も世界文化遺産に登録された。日本の産業近代化の象徴である「絹産業」とともに、歴史の興亡を経てきた「絹の道」は、「絹」が紡いだ東西文化の懸け橋として、世界から脚光を浴びることになった。
 そのシルクロードの世界文化遺産への申請は、中華人民共和国に加え、カザフスタン、キルギス両共和国の三国共同で提出され、初めての本格的シリアル・ノミネーション(複数の連続性ある資産をまとめて推薦)だった。ユネスコ諮問機関のイコモス(国際記念物遺跡会議)によって審査され、包括登録という新しい手法で、かつてないスケールの世界文化遺産が実現した。
 包括申請では、資産の名称として「シルクロード:長安―天山回廊のルートネットワーク」となっており、それは長安から「天山回廊」を経て、中央アジアに至る全長8700キロに及ぶ。
この「天山回廊」には、玄奘三蔵が唐の都から天竺まで求法の旅をした道筋が重なる。具体的には玄奘の遺骨を祀っている西安の興教寺と、天竺から持ち帰った経典を翻訳し納めた大慈恩寺、旅の途上にあった玉門関、時の国王・麹文泰(きくぶんたい)に引き止められ滞在した高昌故城、さらに立ち寄った交河故城、キジル千仏洞、スバシ仏寺などがリストに含まれている。
 そもそも「絹の道を世界遺産に」と着想し、口火を切ったのは、ほかならぬ日本画家でユネスコ親善大使であった故・平山郁夫画伯だ。国連文化遺産年の2002年12月に中国の西安で開催されたユネスコ・シルクロード国際学術シンポジウムで提唱したのだった。後日、平山画伯は「シルクロードを国際交流や平和の道に」との趣旨を盛った書簡を、当時のコフィー・アナン国連総長に送っている。
 今回の世界文化遺産への取り組みは、中国が主導していて、世界文化遺産に登録された「天山回廊」は、シルクロードの一部に過ぎない。しかしシリアル・ノミネーションという国境を超えた画期的な推薦方法に基づく登録決定であり、国際的にも注目される。
 シルクロードはローマまで多くの国にまたがる。将来的には、さらに西方の「交易の道」であった地中海地域へつながっていくのは確実だ。東に延長させて、日本の沖ノ島、太宰府を経て奈良に至る「仏教伝播の道」の登録への可能性も秘めている。日本にとっても、このルートを通って仏教や様々な文物が伝わり、日本文化の源流とされるだけに、今後の動向に関心を持つべきであろう。

  二 シルクロードは日本文化の源流

 シルクロードという優雅な名前は、中国から絹がヨーロッパへ運ばれたことに由来する。名付けたのはドイツの地理学者で、1877年に著した『中国』の第一巻に、「ザイデンシュトラーセ」という言葉を使った。ドイツ語で「ザイデン」は絹のこと、「シュトラーセ」とは道のことで、英訳して「シルクロード」という言葉が次第に定着したのだった。
 中国から中央アジアを経て、シリアに至る壮大な道を現地踏査したのがスウェーデンのスウェン・ヘディン(1865-1952)や、イギリスで活躍したハンガリー生まれのオーレル・スタイン(1862-1943)らの探検家たちだ。彼らの探検には、玄奘が著した『大唐西域記』が道しるべになった。
シルクロードへの関心の高まりは、1980年、喜多郎のテーマ曲が流れるNHK特集の「シルクロード」の放映によって、日本からブームが起こった。その四半世紀後の2005年に「新・シルクロード」スペシャルが続映され、日本での人気と関心が世界を牽引してきた。
 シルクロードの終着点と位置づける奈良県では1988年に、「なら・シルクロード博覧会」を平城宮跡と奈良公園周辺で開催し、682万人の入場者があった。閉幕後も「奈良公園シルクロード交流館」として開設し、シルクロードの歴史や奈良との関係を展示紹介している。
 シルクロードに住む幾多の民族は、豊かな文化を育て、交流し東西の文明が融合してきたのだ。中国から絹が運ばれ、西からは、宝石や器、織物や楽器などがラクダや馬の背に乗せられてアジアへと運ばれた。その証しとして、奈良の正倉院にペルシャの陶器や楽器が所蔵されている。
シルクロードを通って物だけが交流したのではなく、宗教も伝えられた。アラブからはイスラム教が、インドから仏教が東漸した。とりわけ仏教が、今日の日本に定着したことは、あまりにも大きい。その最大の貢献者が玄奘だ。
一方、悠久のシルクロードは興亡の歴史を刻んできた。紀元前にはアレクサンドロス大王のカイバル峠を越えた東征によって、ヘレニズム文化が花開いた。紀元後も、チンギスハーンが征西するなど騎馬民族がその富と覇権を求めて勇躍した。
 古代にバクトリアと呼ばれた中央アジアはシルクロードの要衝に位置し、オアシスとして栄えてきた。さらに隊商の民、ソグド人の都市国家の時代を経てイスラム化が浸透した。ソ連時代には束縛されたが、独立後の近年はモスクの姿が顕著になっている。
 ロマンと異文化に満ち溢れているシルクロードは、紀元前から興亡の歴史を経てきた。それは覇権を求めての侵攻が主だったが、近年はアフガニスタンをはじめシリア、トルコなど、いずれも反政府組織の武装化による内戦だ。ただイスラムの派閥抗争も絡み、それぞれの状況は複雑だ。さらに今回、世界文化遺産となった遺跡の主舞台は、深刻な民族問題を抱える中国の新疆ウイグル自治区にある。
 このため21世紀の現在も、長大なシルクロードを自由に往来できない。かつて厳しい自然や、言葉の違いの壁を超えて交流し、無事に目的を成し遂げた玄奘や、交易のためにオアシスを通過し、幾つもの国を旅した隊商の人々に、「平和への道」のあるべき姿を見いだすことができる。
 明るいニュースもある。米国、ロシア、英国、フランス、中国の核保有五ヵ国は2014年5月、中央アジア非核兵器地帯条約の議定書に署名し、カザフスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタンの中央アジア五ヵ国での核兵器の使用や核による威嚇をしないよう義務づけた。シルクロードの中枢部の非核化が大きく前進したわけだ。
 今後、シルクロードを単に観光開発の対象としてではなく、「平和と国際交流の道」にすべきであろう。そして世界文化遺産となったシルクロードは、日本文化の源流であることを銘記すべきだ。島国・日本とはいえ、ユーラシア大陸と密接に繋がってきた歴史を理解し、一層の国際貢献が望まれる。
アジアとヨーロッパを結ぶ大動脈のシルクロードが、人類共有の普遍的価値を持つ文化遺産であると同時に、人類悲願の国際平和の象徴としての役割を担ってこそ、真の価値がある。

三 「地球市民」の先駆者でもあった玄奘

 私にとって、シルクロードの旅は、玄奘三蔵の足跡をたどることから始まった。 朝日新聞社の文化企画の仕事に携わっていた時、1999年の創刊120周年記念プロジェクトに「シルクロード 三蔵法師の道」をテーマにした学術調査や展覧会、シンポジウムを提案し、採用されたことが、すべての端緒であった。
 「なぜ、玄奘三蔵を取り上げたのか」――。誰もが知る『西遊記』の三蔵法師こと玄奘は7世紀に実在し、仏教の教えを求めて唐の都・長安から天竺・インドまで旅をし、般若心経などを訳し、『大唐西域記』を著した。偉大な宗教家である玄奘は、探検家でもあり、国際交流の先駆者ともいえる。日本人が忘れかけている無私の精神を呼び起こし、物質文明と拝金主義に対しての警鐘になり、私たちの生き方に原初的な問いを投げかけるからだ。
 価値観が揺らぎ混迷していた20世紀末、玄奘の生き方を検証し、「アジアの世紀」とされる21世紀に向けて、指針となるべきメッセージを発信できればといった趣旨だった。とりわけ20世紀は「戦争の世紀」であり、21世紀を「平和の世紀」にとの願いも込めていた。
 こうして始まったシルクロードの旅は、「三蔵法師・玄奘」の足跡をたどる追体験でもあった。1997年から4年間にわたって断続的に、中国から中央アジア、パキスタン、インドへと旅を重ねた。
やがてライフワークとなり、プロジェクトを終えても、さらに朝日新聞社の定年後もシルクロードへの旅は続き、イランやトルコ、イタリアへも足を延ばすことになり、断続的に17回を数えた。
 21世紀は、1400年前の玄奘の道をたどる旅など容易であろうと思われるが、追体験することは至難である。アフガニスタンでの内戦が続いており、自然や、政治、社会の環境が整っていなければ通行できない。玄奘の道を考えることは、現代社会を考えることに通じる。
 航空機など交通手段とITによる情報通信の進展で、人類の文明は地球規模で捉えなくてはならない。玄奘は七世紀に自然の厳しさや言語の壁を超えて、真の仏法を求め、仏教を後世に伝えた。その偉大な功績は、まず仏教者として「新訳」と言われる膨大な経典の翻訳である。
 また探検家としても、玄奘が口述筆記させた『大唐西域記』は、20世紀初頭のスタインやポール・ペリオ(1978-1945)らの探検と研究成果につながった。
 そして何より長い旅を通じ、異文化や異民族交流を果たした「地球市民」の先駆者であった。奪い合うのでなく与え合い精神文化を育て、「物」と「心」の調和が求められている時代に、玄奘の実践した生き方から現代人が学ぶべき指針がある。玄奘はまた、長い旅を通じ、異文化や異民族交流を果たした「地球市民」の先駆者であった。

メモ
朝日新聞社の「三蔵法師の道」プロジェクト
・特別展「西遊記のシルクロード 三蔵法師の道」開催
(6カ国から約300点を展示。奈良、山口、東京を巡回し約23万人を動員)
・学術調査「三蔵法師の道は今」
(一年半五次にわたって実施。延べ35人の学者や研究者、朝日スタッフが参加)
・国際シンポジウム「三蔵法師・玄奘のシルクロード」 奈良県・ユネスコ共催
(1997年と1999年に三蔵法師の「足跡と風土」「指針と遺産」をテーマに開催)
・その他 写真展、ツアー、カルチャー講座、出版、ビデオ制作

「三蔵法師の道」学術調査の内容
玄奘が17年かけ踏破した3万キロの苦難の道のりは『大唐西域記』によって点と点を結ぶ形で示されているが、学術的にルートの解明はされていない。朝日新聞社では国際日本文化研究センターはじめ、奈良女子大学、滋賀県立大学、奈良県立橿原考古学研究所などの協力を得て「三蔵法師の道研究会」を発足させた。研究会では文献調査を基に、新たな手法として、人工衛星が撮影した高解像度の写真を使って古道や遺跡を分析し、実地踏査で確認していく方法を試みた。
その結果、「宇宙から届けられる地図の利用によって、視野が地球規模に拡大した。現地調査の前に衛星写真で想定した遺跡を確認することにきわめて有効であり、玄奘が『大唐西域記』に記した風景をよみがえらせることに予想以上の成果をあげることができた。た。調査の内容は、その都度、紙面化して報道した。

調査団派遣日程と目的地は以下の通り。
・第一次調査団 1997年8月5日~20日 ウズベキスタン、キルギス、カザフスタン
・第二次調査団 1998年3月24日~4月4日 ウズベキスタン、タジキスタン
・第三次調査団 1998年6月21日~7月1日 パキスタン、ガンダーラ・スワート地域
・第四次調査団 1998年9月10日~30日 パキスタン、中国新彊ウイグル自治区
・第五次調査団 1999年2月14日~3月6日 インド