白鳥正夫の
えんとつ山
ぶんか考

変貌する近隣の台湾を再訪

 残暑の続く10月中旬、台湾へ行ってきました。関西空港からわずか2時間40分、大阪と東京とほぼ同じ時間で到着します。2007年12月以来の再訪で、今回も5日間の旅でした。尖閣や歴史認識の問題などで近隣国との関係がギクシャクする中、台湾はかつて日本統治下にありながらも親日的です。中国大陸の中華人民共和国から分かれ、中華民国として政治や行政、経済も独自路線を貫き、アジアの中でも著しい発展を遂げています。いくつかの視点から、その変貌や現況、日本との関わりを伝えます。

【二つの故宮】アジアで初、台湾の名宝の日本展

 今回の台湾行のお目当ての一つが、世界四大博物館とされる故宮博物院の見学でした。入場料は160元(日本円にして約550円)で、平日の開館時間は午前8時半から午後6時半まで(土曜のみ午後8時半)でした。前回と同様、地下の入り口は入場者でごった返していました。約2時間足らずでしたが、青銅器、陶磁器、玉器、彫刻の代表的な文物を中心に鑑賞しました。

 とりわけ中国・清代の玉器「翠(すい)玉(ぎょく)白菜」と「肉形(にくがた)石」などが、2014年に東京国立博物館と九州国立博物館で開かれる台北・故宮博物院展に出品されことが発表されており、ひと足早く見ておきたいとの思いもありました。

 「翠玉白菜」は、博物院の数ある名品でも目玉の一つで、ヒスイの玉彫り。清の光緒帝の皇后が嫁入り道具として作らせたとの説もある一品です。買い求めた図録によると、「白菜は清らかで汚れのないことを寓意し、花嫁の純潔を示しており、葉の上に乗った昆虫は多産を象徴し、子孫繁栄を願うもの」とされています。「肉形石」の方は、豚の角煮と見紛うような天然石を上手く活かした彫刻です。

 故宮といえば、北京にもあり、こちらも3度訪ねています。台湾の故宮の所蔵文物は約69万件。その多くは1945年の日本統治時代終了後、中国での共産党と国民党の内戦が勃発します。国民党は北京の故宮から戦火を逃れるため精選した文物を、南京などに移した後、台湾に運んだとのことです。

 台北の故宮博物院はこれらの膨大な文物を収蔵するために建設されたのでした。台湾政府は現在、台湾高速鉄道嘉義駅の隣にアジア文化をテーマとした故宮南院を2015年の完成を目標に建設工事が進めており、博物院機能の分散化が図られているそうです。


■海外からの観光客で賑わう台湾の故宮博物院

■日本でも初公開される目玉の「翠玉白菜」
【映画の舞台】『悲情城市』『千と千尋…』の九份(きゅうふん)

 九份は、台湾北部の山あいにある古い小さな町です。山の斜面の坂道や石段、路地などに土産物屋や飲食店がひしめき、レトロな風情があふれる観光地です。もともと9戸しかない寒村で、物を補充する時に毎回9セットを買っていたことから名づけられたといいます。

 19世紀末に金の採掘が開始されたことにより発展しましたが、1971年に閉山したのを機に急速に衰退します。その後、1989年に制作され、ベネチア映画祭でグランプリになった台湾映画『非常城市(A City Of Sadness)』のロケ地として使われたことから一躍脚光を浴び、観光ブームが訪れます。

 この映画は、日本統治時代の終わりから、中華民国が台北に遷都するまでの4年間の激動の台湾社会を酒家を営む大家族を通して描かれています。日本が敗戦した後の台湾には、連合国軍の委託を受けて日本軍の武装解除を行うために大陸から蒋介石率いる中国国民党政府の官僚や軍人が進駐し行政を引き継ぎます。

 ところが1947年2月、台北でヤミ煙草取締りの騒動を発端として、戦前から住む本省人と大陸からやってきた外省人が争う「二・二八事件」が起き、抗争はたちまち台湾全土に広がります。一連の事件での殺害・処刑者は2万人を超えたといわれています。

 約40年にわたる威厳令が解除されたのが1987年で、その2年後、規制が緩やかになったタイミングで、侯(ホウ)孝(シャオ)賢(シエン)監督が公開したのでした。この映画を観たのは1994年に私が企画に関わった「朝日シネマの旅」でリストアップしたのでした。名画として観賞しただけでなく、台湾に関心を持つきっかけになったのでした。

 九份には、アニメ映画の巨匠・宮崎駿監督も滞在し、2001年に公開された作品『千と千尋の神隠し』の物語の舞台モデルにもなっています。


■台湾観光の人気スポットになった九份の町

■ロケ地となり「非常城市」の看板のかかるレストラン
【日本の名残】台湾に生きている、ゆかりの寺も

 1895年から50年に及んだ日本統治の歴史ゆえ、現在の台湾には形のある建造物や産業遺産から伝統やしきたり、日本語や日本精神などにも、戦前の「日本」が生きています。台北の中華民国総統府は、終戦までは台湾総督府として使われているほか、旧総督官邸や学校、駅舎などの由緒ある歴史建造物は美術館や公共施設として活用されています。

 台中にある宝覚寺は1928年に建立された仏教寺です。本尊は釈迦如来で、臨済宗妙心寺(京都)の管長が道士として台北に赴任していた時に普請に尽力したとのことです。本殿の隣には弥勒菩薩の大仏がそびえています。台湾第二の大きさで高さ30メートル。七福神の布袋さまの姿で笑顔が印象的です。境内には物故した日本人居留民1万4千人の眠る遺骨安置所と墓碑もあります。


■布袋さまの姿をした大きな宝覚寺の弥勒菩薩

■日本人居留民遺骨安置所の墓碑
【名勝地点在】太魯閣(たろこ)峡谷、日月潭(にちげつたん)、三仙台…

 5日間で10都市を周遊しましたが、各地に見どころが点在していました。そのいくつかを紹介します。まず太魯閣峡谷は台湾を代表する景勝地です。峡谷一帯の山岳地帯が国家公園に指定されています。東部最大の都市・花蓮側の入口から終点の天祥まで約20キロもあり、途中には断崖絶壁もあり自然美にあふれています。

 前回はバスで数キロ走行し渓谷を散策しましたが、今回は列車の都合もあって、入口付近の眺めを楽しみました。立派な赤い門構えのゲートをくぐり橋を渡ると長春祠が見えてきます。一枚岩の大理石の割れ目から水が激しく流れ出し滝になっていますが、祠は滝を跨ぐ格好で中国宮殿風の建物です。この辺りは大理石の産地で、岩盤をくり貫きトンネルを貫通させた際に殉職した霊を祀っていました。

 日月潭は初めて訪れました。台中の南東約40キロ、地図を手にすると、サツマイモの形をした台湾のほぼ真ん中に位置します。総面積が793ヘクタールの湖で、遊覧船が浮かび湖岸にロープウエイもあります。周囲が24キロあり、場所や季節、時間によって湖面の表情を変えます。豪華な中国宮殿式建築の文武廟からの眺めも格別でした。

 三仙台は、東部の花東公路(海線)沿いにある大岩礁で、2度目の観光です。地名は海に浮かぶ3つの岩を3人の仙人になぞらえて付けられたといいます。もとは岬だったが、波に浸食され島になったとのことです。浅瀬で干潮時には歩いて渡れたようですが、珊瑚礁を保護するため、美しい太鼓橋が連なっています。

 南部の台湾第2の都市・高雄の北部に左営には、蓮が咲く淡水湖の蓮池潭があります。周囲は約7ヘクタールほどですが、湖水には龍虎の七重塔が設けられています。龍の口から入り、虎の口から出ればこれまでの悪い行いが帳消しなるとか。湖水には楼閣や巨龍の背に乗った観音像、巨大な玄天上帝などのも浮かんで見え、湖岸に沿って数多くの出店が並び、国内外の観光客らで賑わっていました。


■代表的な景勝地・太魯閣峡谷

■793ヘクタールもある湖の日月潭

■美しい太鼓橋が連なる三仙台

■龍虎の七重塔の浮かぶ蓮池潭
【新名所次々】101、美麗島駅、LOVE公園…

 「TAIPEI101」は、高さ508メートルを誇り台北のランドタワーです。地上101階、地下5階からなり、名前はこれに由来します。7年間の工期を経て、竣工した2004年には世界一の超高層建築物でした。現在はアラブ首長国連邦の「ブルジュ・ドバイ」の818メートルに追い越されています。101ビルの施工には熊谷組を中心としたJVにより行われ、総工費は約600億元を要したといいます。

 5階から展望台のある89階までは約382メートルです。エレベーターは東芝製で、37秒でたどりつきます。世界初となる気圧制御システムを導入していて耳が痛くなりません。2009年時に展望台からのパノラマ風景を満喫しており、今回はパスしました。天気のよい日の夜景は格別とのことで、次回があれば是非ともとねがっています。

 「MRT美麗島駅」は、高雄市内にあり、世界で2番目に美しい駅との触れ込みです。MRTとは、Mass Rapid Transitの頭文字の略称で、南北を結ぶ紅線と東西の橘線からなり、2008年に開通しました。その交差駅が美麗島で地下駅です。その改札前の広場には、天井の巨大なドーム状の屋根にモダンアート風のポップなデザイン絵が電光に照らされています。広いロビーではグランドピアノの生演奏があり、様々なイベントが行える空間が広がっています。

 同じく高雄市内にある寿山公園は、海抜36メートルの寿山の中腹にあり、市や港を一望できます。公園内には樹木が多く市民の憩いの場所です。第二次大戦後、戦死した人々を弔うための忠烈祠もあります。

 今年1月「LOVE展望台」が新設され、LOVEの文字には電光が備えられていて、カップルに人気のデートスポットになっています。眼下には、その名も愛河(ラブリバー)という川が流れ、繁華街のひしめく台北と違って、街自体はロマンチック雰囲気をかもし出しています。


■高さ508メートルの「TAIPEI101」

■世界で2番目に美しい「MRT美麗島駅」

■寿山公園の展望台に設置された「LOVE展望台」
【台湾の歌姫】もう一人のテレサテン、在日の寒(かん)雲(うん)さん

 台湾のことを知らない人でも1970-80年代に日本で活躍したテレサテンのことは「台湾の歌姫」として有名です。1953年に台湾の雲林県で生まれました。両親は、1949年に中国本土での内戦に敗れた蒋介石とともに移住してきた約50万の外省人でした。

 10歳の時、ラジオ局主催の歌唱コンテストで優勝し天才少女として注目を集め、14歳でプロ歌手としてデビューしています。21歳の時に日本での歌手活動を始め、「空港」や「つぐない」「愛人」「時の流れに身をまかせ」など次々とヒット曲を飛ばし、人気を博しました。今回の旅のバスの中でも、日本で活躍するNHK特集番組のビデオを放映してくれました。

 私にとって、もう一人のテレサテンともいうべき金沢在住の歌手、寒雲さんとは20年来の知人です。寒雲さんの名前を全国に知らしめた事件があります。2003年5月の新型肺炎(SARS)騒動です。感染した台湾医師が香川県の小豆島のホテルに泊まったため、キャンセルが相次ぎました。寒雲さんは私財200万円を投じて全国から170人を無料宿泊招待し、歌も披露したのです。

 テレサテン後の1990年以降、自身の作詞作曲によるアルバム『思郷』を出しリサイタルも開き活躍しています。一方、「台北市立国楽団」の日本公演の実現するなど地道な文化交流も続けています。

【街道をゆく】司馬遼太郎の書いた『台湾紀行』から

 私の手元に司馬遼太郎さんの『街道をゆく40 台湾紀行』(朝日文庫版)があります。1993年7月から翌年3月にかけて週刊朝日に連載されていたものです。連載後に掲載された司馬さんと当時の李登輝総統との対談も所収されています。「国家とはなにか。といより、その起源論を頭におきつつ台湾のことを考えたい。これほど魅力的な一典型はないのである」との書き出しで始まります。

 司馬さんは1993年の1月と4月に、そして李総統との対談のため3度台湾を訪れて、台北や高雄、台東、花蓮などを旅しています。ジャーナリスティックで詩情豊かに紀行文を綴っています。そして何より半世紀もの長い期間、日本が統治していた台湾の行く末を案じていたのです。李総統との対談「場所の悲哀」の中で、次のような発言をしています。

 中国のえらい人は、台湾とは何ぞやということを根源的に世界史的に考えたこともないでしょう。  中国がチベットをそのまま国土にしているのも、内蒙古を国土にしているのも、住民の側からみればじつにおかし い。毛沢東さんの初期の少数民族対策は理念としてよかったが、実際には内蒙古もチベットも、住民は大変苦痛のよ うですね。それをもう一度台湾でやるなら世界史の上で、人類史の惨禍になりそうですね。

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 台北の桃園空港で見送ってくれたガイドの朱正宏氏さんの笑顔に応え、また「訪ねます」と口約束をしました。2度目の台湾から帰国の機上で、オランダや日本に統治された台湾が同じ漢民族とはいえ中国大陸に統治されないことを願わずにいられませんでした。