白鳥正夫の
えんとつ山
ぶんか考

新藤監督の追悼本『太陽はのぼるか』を出版

   日本の最高齢映画監督として活躍された新藤兼人さんが100歳で逝去され5月29日、一周忌になりました。99歳で監督として49作目の「一枚のハガキ」を撮り、見事な一生といえますが、生前撮りたかった作品の創作ノートがありました。原爆をテーマにした「太陽はのぼるか」です。人生の「夢」を持ち続け生涯を貫いた新藤さん。その「夢」に交差した私に、幻となった50作目の新藤監督の「夢」が遺されました。朝日新聞社時代に映画製作を企画した際に新藤監督から託されたのですが、実現しないまま私が保持していたのです。一周忌を機に、ご子息で近代映画協会代表の新藤次郎氏のご理解とご支援により20年の時を経て全文を公開し、亡き新藤監督への鎮魂のオマージュとして、精魂込めて一冊の本を書き上げたのです。


■新刊『太陽はのぼるか』の表紙(1616年頃)

■東京・増上寺光摂殿で営まれた葬儀。遺影は『一枚のハガキ』の撮影現場での新藤監督

■近代映画協会の窓際にある故新藤兼人監督の机。卓上に小さな写真額が置かれている

■『午後の遺言状』撮影の合間、打ち合わせをする新藤監督と乙羽信子さん。以下2枚は近代映画協会提供

■『原爆の子』のポスター(手前は乙羽さん)

■人類史上はじめての原子爆弾で、広島をおおったキノコ雲(松山上空から米軍撮影)以下4枚、広島平和記念資料館提供
戦後50年記念に映画制作を立案

   私が近代映画協会をしばしば訪れ始めたのは、1993年初春に遡ります。朝日新聞社が1995年の戦後50年を記念しての企画に、「ヒロシマ」をテーマにした映画づくりを立案したからでした。

 1945年8月6日の広島原爆投下は、一瞬に35万人を被爆させ、大都市を廃虚にしました。この惨劇を人類の記憶に留め、「核兵器の廃絶と世界平和」を願う朝日新聞社の姿勢を内外に示そうとの発意です。被爆の実相を再現し、音と映像による追体験を、広く社会に伝える手段として、映画による再現が効果的と考えたのでした。

 監督候補は広島出身の新藤兼人さん以外に考えられませんでした。これまで「原爆の子」(1952)「第五福竜丸」(58)「ドキュメント8・6」(77)「さくら隊散る」(88)など次々と原爆を取り上げた映画を発表。加えて新藤さんは独立プロによる映画製作の実績で、1975年度に朝日賞を受賞していました。私は新藤さんを最適任者と確信し、打診したのです。新藤さんは新たな視点でドキュメント映画として製作することに意欲を示されたのでした。

 戦後50年の節目に、戦時下や占領下の報道姿勢で苦い体験を踏まえた新聞社として、戦争の愚かさを語り継ぐのは責務と思えたのでした。映像記録はモニュメントとして後世に確実に残るだけに意義深いはずです。映画は斜陽と言われていましたが、劇場で見せるだけでなく、テレビ番組やビデオ化による普及にも期待できます。私は頭いっぱいに「ヒロシマ」の映画づくりへの夢をふくらませたのでした。

 一方、新藤監督は朝日新聞社の映画製作に期待し、早々とストーリーのあらましを書き上げたのです。それが「太陽はのぼるか」と題された創作ノートです。そこには、以下のような実話が書かれていました。

 建物疎開の作業をしていた妊婦は被爆時、赤ん坊を背負っていた。赤ん坊は母親の背中で無数のガラス片を受け身代わりになった。その母親から生まれた娘は、胎内被爆によって小頭症となり、言語障害を伴い知恵遅れのまま成長していった。母親は「この子を置いて、先に死ねない」と言い続けていましたが、1978年に亡くなったのです。

 近代映画協会の机をはさんで、新藤監督は繰り返し強調していました。「原爆投下の日のセットには多額の金がかかるが、地獄と化した町と人の様子を感動的に描きたい」。そして「20世紀に日本が経験した悲惨な歴史から、人類の明日のことを考えてもらおう」と。かみしめるように語っていたことを思い起こします。

 私は寝ていても映画づくりへの夢を見ました。エピローグは一般読者から生への希望を伝えるポエムをつのり、泣いて生まれてくる乳児の顔に一行ずつかぶせて見せてはどうか、といった具合です。新藤監督にも実際に提案した。原爆投下の日にも新しい生命が生まれました。被爆の悲劇の深さを描くと同時に、極限状況の中から立ち上がる生命の尊厳、愛、希望を伝えたいと思ったのでした。

 ところが肝心の経費を試算してみると、映画製作には宣伝費を加えると4億~5億円と膨大な資金がかかることが分かったのです。さらに映画が出来ても、大手の映画会社に配給してもらわなければ、多くの人に見てもらうことができません。事業決定は高度な経営判断が必要になり、リスクが大きすぎ、ついに断念する羽目となったのでした。

 私たち映画推進スタッフの計画が甘かったに尽きました。とりわけ中心的な役割を担っていた私の責任は重かったのです。社内外の人を巻き込んでの挫折に後始末をつけなければなりません。計画の断念はなんとも悔やまれますが、新藤監督に映画製作の断念を了解していただく、つらい仕事が残されていました。

 重い足取りで近代映画協会のドアをくぐり「申し訳ありません」とひたすら謝りました。監督は理由を問いただすこともなく「残念だったね」とひと言でした。その寛容さに敬服したのです。


■原爆投下時の広島県産業奨励館(原爆ドーム)と爆心地付近

■原爆投下の日を描いた市民の絵。水を求めてさまよう人々(宮地臣子さん描く)

■市民の絵で、皮膚が垂れ下がった負傷者(吉村吉助さん描く)

■世界遺産に登録された現在の原爆ドーム
「老い」をテーマにした「午後の遺言状」

 映画製作が幻に終わった時点で新藤監督との接点は終結するはずでした。ところが短期間ながら集中的に取り組んだ私は、新藤さんの生きざまを知るにつけ深い感銘を受けたのです。戦後50年企画の一つに、「ヒロシマ」に関連する美術品を巡回する展覧会「ヒロシマ 21世紀へのメッセージ」を開催することになり、その図録に監督の文章を寄せていただくことを思いついたのでした。

 展覧会には被爆都市に開館した広島市現代美術館の所蔵作品を中心に出品しました。これらの作品は美術においてヒロシマの意味を問い、1989年に国内外の78作家に「ヒロシマ」をテーマに製作委託したものでした。さらに被爆直後の惨状を撮影した写真と、これらの写真をデジタル化した映像、市民が被爆の様子を描いた絵などで構成しました。

 新藤さんから、映画化できなかった小頭症の物語を軸にした「霊魂よ眠れ」と題した文章をいただきました。この中で「現代の広島は見事に復興した。だが、目を閉じれば広島の空よりも巨大な鉛色のさだかでない物体が浮遊しているのだ。作家たちはそれを知っているから、たじろぐのだ。作家たちは、八月六日の広島を見ていない。作家は心でそれを見ている」と綴っています。

 そして「母親は頭の小さい子を残しては死ねないと言い続けながら、怨みを残して逝ってしまわれた。ピカドンが頭を小さくしたのだ、そのことを忘れてはならない。ピカドンは語りついでいかねばならない」と結んでいました。

 「ヒロシマ」の映画製作が中止になったこともあって、監督はその年に「午後の遺言状」を撮ったのです。老いがテーマで、杉村春子さんが主役でした。この作品が同志で奥さんの乙羽信子さんの遺作になったのです。映画は大ヒットとなり、後に舞台でも展開されました。

 新藤さんとの仕事の関係が続いていたため、監督から「午後の遺言状」のシナリオをいただき、ロケ地の蓼科に誘われたこともありました。その台本の題名には張り紙がしてあり、元は「午後の微笑」だったのです。

 後に分かったことですが、この映画を撮る前から乙羽さんは肝臓がんに侵されていました。新藤さんは、医者からあと一年有余の命で出演は無謀と聞かされていました。しかし四十余年も一つの道を歩んできた同志に「役者らしく、最後の役を演じて去ってもらおう」と、撮影に入ることを決断したのでした。薬を飲み、抗がん剤の注射を打ちながら収録だったそうです。病状が悪化する中で、文字通り「遺言状」になったわけです。夫婦以上の同士の「きずな」と言えます。

 乙羽さんを喪った新藤さんは、『いのちのレッスン』(青草書房)で「独り残った私は、今、20億円欲しい!」と訴えています。原爆投下の瞬間にきのこ雲の下で起きた惨状を再現する「ヒロシマ」(仮題)の構想を実現したいからだ。「何かを人に伝えたい」。新藤さんと夢見たあの「夢」はなお終わっていなかったのです。


■新藤監督の文化勲章受賞を祝うパーティでの新藤さんと著者(2003年、東京のホテル)

■筆者の出版記念祝賀会に出席してスピーチをする新藤監督(2005年、東京・私学会館)
「3・11」後の人生と国のあり方へ一石

 人は生まれ、それぞれに「夢」を抱いて生き、「夢」を紡ぎながら人生を終えます。その「夢」は、共に生きる社会に向け、語り伝え、他の人々に感銘を与え、生きる指針になればより有意義です。しかし一生は長いようで、短く儚いのです。限りある命ゆえ、伝えられたことと、伝え切れなかった「夢」もあります。

 人生の「夢」を持ち続け生涯を貫いた新藤監督。その「夢」に交差した私には、広く社会に伝えるべき「夢」が残されました。老いと闘い「生きぬいてきた」新藤さんの「夢」を伝え、平和の尊さをあらためてメッセージできればと思います。と同時に私もまた「夢」を追って生きてきました。私の果たせた夢や果たせないでいる夢も絡めて書き留めておきたいと思ったのです。「3・11」後の人生と国のあり方に、一ジャーナリストが探し出した答えとして、一冊の本になったと自負しております。

 国難とも言うべく未曾有の惨事だった東日本大震災から復興への道を歩む日本ですが、日本はもっと過酷だった第二次世界大戦の敗戦から立ち上がってきたのです。戦後70年を間近にした現在、私生活主義が蔓延し、あれほど修羅場を呈した戦争の記憶も風化に拍車がかかっています。

 最後に、本書の表題となった『太陽はのぼるか』の言葉について言及しておきます。このタイトルは、新藤監督の思いが詰まった未完映画の創作ノートに由来します。一発のピカドンは一瞬にして街を廃墟にし、何十万人もの命を奪いました。まさに地上は阿鼻叫喚の地獄と化し、生き残った人々は、黒い雨の降る中を、「太陽のない」世界をさまよったのです。

 新藤さんは原爆が投下された数秒間を映像によって、この「太陽のない」世界を再現しようと考えたのです。なぜならば核時代に生きる者にとって、「太陽が二度とのぼらない」と思わせるに足る世界が厳然と存在することのメッセージを後世に伝えておきたかったからです。

 夜が明ければ「必ず太陽がのぼる」ことを、当たり前として生きている私たちに、絶えず「太陽がのぼらない」世界が隣り合わせていることの「想像力」を持たなければならない、との意図が込められているのです。