隣国の中国への旅は両手足の指を足した数ほどになります。1996年に唐時代の都だった西安を皮切りに、首都・北京をはじめ、シルクロードのルートにあるウルムチ-トルファン-クチャ-カシュガル、敦煌など西域にも何度か、世界遺産の景勝地として知られる九寨溝・黄龍、さらには北朝鮮と国境を接する集安にも足を延ばしています。今回は4月に訪れた東北エリアで日本とゆかりの大連・旅順・金州、6月に旅した華中エリアの上海・水郷の美しい蘇州・杭州などについてリポートします。広大な中国は何度行っても地理関係はつかめず、地図を広げて確認するのがやっとです。しかし行くたびに都市化が進んでいるのに目を見張ります。日本を抜き、いまやGDP(国民総生産)が世界第2位となった大国について、私の所属するジャーナリズム研究関西の会でも取り上げられました。ちなみに今年は日中国交正常化40周年にあたります。

大連、満州時代の名残の建築数々
日露戦争、「203高地」の旅順

 日清戦争や日露戦争の舞台となり、日本の支配下にあった大連・旅順には一度は訪ねたいと思っていました。関西空港を飛び立ってわずか2時間半で大連に着きました。遼東半島の南端にあり、東に黄海、西に渤海に面しています。要衝の地であるが故、1898年にロシアの、1905年には日本の租借地となっています。それだけに両国が築いた街並みは、いまも往時の名残を伝えています。

 とりわけ満州国開拓に大きな役割を担った満鉄本社の建物はそのまま「大連鉄道有限責任公司」として使われていました。また満州一のホテルとして有名だった「大連ヤマトホテル」も「大連賓館」として健在でした。ルネッサンス式外観の建物内に入るとガイドがいて、豪華な迎賓庁の室内やシャンデリア、螺旋階段、調度品などを案内していただきました。二階のカフェでケーキセットを注文し、窓から中山広場の眺望を楽しみました。

 「大連賓館」で買った1938-40年時の「たうんまっぷ大連」を見ると、中山広場から放射状に広がる街並みがよく分かります。ロシアの統治時代にパリをモデルに植民地都市として建設されたのでした。帝政ロシア時代の面影を伝える「旧ロシア人街」や、高級住宅街であった「旧日本人街」も散策しました。約半世紀にわたってロシアと日本に統治された大連ですが、いまや人口約580万人を擁し、日本をはじめ外国の企業が進出する経済先進地であり、近代港湾都市に変貌したのです。

 大連近郊の金州では、正岡子規が朝日新聞記者の時代に訪れた提督府の記念句碑や道教寺院の響水寺、日露戦争の古戦場の南山にも出向きました。沿道には大型クレーンが林立し高層のマンション建築が随所で見られ、トラックが行き交っていました。南山の高台からも大規模ニュータウンの建設が望めました。

 旅順は軍港のため、観光地として外国人に開放されたのは2009年からだそうです。日露戦争最大の激戦地として知られる「203高地」は見逃せません。あいにくの雨天となりましたが、車を降りて約20分登坂したところに山頂があります。標高が203メートルあることから、命名されたのでした。ロシア軍基地のあった旅順に攻め込んだ乃木希典将軍が三度目の攻撃で奪取したそうです。1万5000人もの死傷者を出し、激戦後に建てた砲弾形状の慰霊塔には、「爾霊山」と刻印されていました。

 山を降りて、「水師営会見所」に赴きました。乃木将軍とステッセル旅順要塞守備隊司令官とが会見し、旅順開城規約を調印した所です。わらぶき屋根の古びた家屋がそのまま保存され、屋内には当時使用されていたテーブルといすが置かれていて、乃木将軍やステッセル司令官の会見時の写真や、攻防戦の様子などの資料が展示されていました。

 途中、初代内閣総理大臣の伊藤博文を暗殺した安重根が収監されていた旅順監獄などを見て、旅順博物館を見学しました。ここには大谷探検隊の大谷光瑞が寄贈した文物が展示されています。三度にわたって中央アジアを踏破し、シルクロード・西域の数万点におよぶ史料を収集し、その一部が寄贈されていて、1300年前のミイラも展示されていました。

 旅順から大連の帰りは鉄道を利用し、昔ながらの二等車両の旅を楽しみました。撮りためたデジタル写真を再生しながら、あらためて近代日本の足跡を思い返しました。 わずかこの100年の歴史の中、中国の国土で覇権を争い、ロシアに勝利したものの、第二次世界大戦で敗北し、北方四島まで失った日本。この間、広い大陸でひと旗挙げようと馳せ参じ、戦後引き揚げてきた日本国民と、それ以上に半世紀にわたって侵略され、屈辱を味わった大連や旅順の人々の翻弄された歴史を忘れてはならないと痛感したのでした。


■「大連鉄道有限責任公司」の看板がかかる旧満州鉄道本社

■旧ヤマトホテルも「大連賓館」として活用されている

■大連近郊の金州にある正岡子規の記念句碑

■「203高地」の山頂に建つ慰霊塔

■古びた家屋そのままの「水師営会見所」

■大谷コレクションのミイラなどが展示されている旅順博物館

■大連と鉄路で結ばれている旅順駅

■旅順と大連を結ぶ二等列車
杭州で西湖、蘇州で太湖の水郷満喫
上海版摩天楼はわずか20年で建設

 一方、華中エリアは3年ぶりです。以前とは逆のコースを取りました。関空からこちらも約2時間40分程度で杭州へ。今回は世界遺産の西湖十景のうち二日間で「霊峰夕照」や「平湖秋月」などと名づけられた五湖を散策、遊覧船からも名勝を楽しみました。湖岸にはアベックや若者グループ、家族連れなどでにぎわい、市民にとっても格好の憩いの場になっていることが窺えました。

 初めて紹興酒で知られる紹興を訪れ、魯迅旧居と記念館を見学しました。前回は上海にある魯迅公園の記念館に行っています。『阿Q正伝』を著した小説家ですが、中国では思想家として親しまれています。魯迅が生まれて17年間と教師として過ごした2年間暮らしていた家や、幼い頃に虫を取って遊んでいた「百草園」などを見て回りました。

 3日目には、宋・清代の古い石橋の残る金澤鎮に立ち寄った後、運河の街・蘇州へ。翌朝には長江の下流に開けた無錫に足を延ばしました。中山大三郎作詞・作曲の「無錫旅情」を聞いたことがあります。ここでは琵琶湖の3・5倍で、中国では三番目の太湖クルーズに。水郷地帯ですが沿岸の一角には高層ビル群も望めました。蘇州では、除夜の鐘で知られる寒山寺を再訪し、世界遺産の名園の一つ藕園(ぐうえん)や平江の古い町並みを散策しました。

 5日目には宋代から続く最古にして最長1000メートルも続く町並み・古鎮を歩きました。水路をはさんで瓦葺の家並みが軒を並べ川辺に降り、洗濯などができるように階段が随所にあります。古色蒼然の町を後にして、中国随一の経済都市・上海に向かいました。

 上海の都心部が近づくにつれ高層建築が車窓に眺められます。ガイドによると20階以上が5000棟を超えているそうです。ただし住宅は9階以上でないとエレベーターが設置されていないとのことです。

 テレビ塔などが林立する象徴的な浦東の超高層ビル群は黄浦江の外灘プロムナードから仰ぎ見るのが最高です。まさに雲の上にそびえて見えた森ビルが101階492メートルで目下ランドマーク的な存在ですが、その近くに500メートルを超えるビルが建設中でした。この上海版摩天楼はわずか20年での出来事なのです。

 上海では、前回見学した世界遺産の豫園はパスし、隣接する商城をはじめ洒落たレストランが並ぶ新天地、さしずめ東京の銀座に匹敵する上海随一の繁華街・南京東路などを精力的に歩き回りました。外国人も多く、世界的な都市であることを印象付けられました。夜は黄浦江のナイトクルージングを満喫しました。かつてアヘン戦争で勝利したイギリスが商業活動権を得た租界地の名残もあって西岸に立派な西洋建築が建てられており、デッキからの眺めは変化に富んでいました。

 上海博物館は四度目です。1952年に設立され、1996年に新館が建てられ、床面積3万8000平方で、所蔵品は約12万点とされています。しかし会場の日本語パンフレットには、100万点近く所蔵との触れ込みです。青銅器や陶磁器、玉器などの重要文化財をはじめ各民族の伝統工芸品など21種が11のセレクションに分類展示されています。迷路のようなルーブルなどと違って、とても見やすく、四階ま での展示スペースは半日あれば、ひと通り目を通すことが出来ます。青銅器コーナーなどは何度鑑賞しても見飽きません。

 広大な中国は、なにしろ5000年の歴史を誇っているだけに、どんどん近代化が進んでいる一方、古い町並みも散在していて、実に多様な観光を楽しめます。今後も旧満州の首都・長春やハルピン、上海と同様に租界があった天津などにも行ってみたいものです。


■世界遺産の景勝地・西湖

■魯迅が生まれた旧居と記念館

■琵琶湖の3倍以上もある太湖

■世界遺産の名園の一つ藕園

■古色蒼然とした古鎮の町並み

■中国風の建物がひしめく豫園商城

■洒落たレストランが並ぶ新天地

■上海随一の繁華街・南京東路

■ナイトクルーズの船上から撮った上海版摩天楼
「巨龍・中国とどう付き合うか」

 二つの中国旅行をはさんだ5月中旬、筆者も所属するジャーナリズム研究関西の会では、龍谷大学法学部教授の西倉一喜さんの「巨龍・中国とどう付き合うか」と題した講演を聴く機会がありました。西倉さんは近年、中国国営中央テレビで放映された12回シリーズの「大国崛起」のDVDの冒頭を紹介し、「中国は、北京オリンピックで大国としての存在感を国際社会にアピールした。しかし国際社会に尊敬される大国になったとはまだ言いがたい」と話されました。

 筆者が中国を旅して16年余、その後、毎年のように訪問していて感じることは、建物や道路などのインフラが整備され、確かに急テンポの都市化・近代化には驚かされます。しかし北京の場末や新疆などでは貧しい地域が散見され、貧富の差の拡大や、環境破壊、民主化の遅れや公務員の腐敗などの矛盾にも直面しています。

 さて日本とは文化の源流であり歴史的にも密接な関係があります。政治体制が異なっていますが、ますます経済の相互依存が強まっています。今回の旅でも旧満州の大連・旅順は当然として、無錫や上海には日本の企業が数多く進出しています。人やモノ、金が双方向で動き出した日中間だけに、様々な課題を抱えながらも、成熟した関係を政治レベルだけでなく、民間でも築いていかなければとの思いを強くしました。日中国交正常化50年に向けて、不幸な歴史の後戻りは出来ません。

白鳥正夫の
えんとつ山
ぶんか考

日中国交40年、中国への旅