私にとって11冊目となる新刊『ベトナム絹絵を蘇らせた日本人 「文化」を紡ぎ、伝える物語』を5月に上梓することができました。未曾有の大惨事となった東日本大震災から1年有余、国のあり方や、個々人の生き方が問われる中で、「普遍的な価値とは」「次世代へ何を継承すればいいのか」といったテーマについて、議論より実践から導き出したいとの思いを込め、精一杯執筆したのでした。無常の世にあって、変わることのない一途な生き方を探り、生きることの豊かさと深さを求めることが「文化」であり、生きる力になるとのメッセージを託しています。表題となった「ベトナム絹絵の修復」をはじめ、エピローグに取り上げた「一本のえんとつが紡ぐ故郷の絆」など本書の内容と、執筆後の展開を紹介します。

ベトナム絹絵を蘇らせた市民の物語

 紙数の半分を使って書いたのが、カレンダーに印刷された一枚のベトナム絹絵に魅せられた金沢の一市民が取り組んだ4年に及ぶ修復プロジェクトのドキュメントです。日本で忘れかけた働く農村の女性を描いたグエン・ファン・チャン(1892-1984)の作品は、独自の染色技法で描かれたこともあって、劣化の一途をたどっていました。

 遺族から修復を懇願された中村勤さんは、何度もベトナムを往復し日本各地へ飛び、粘り強く方策を探り、スポンサーを求め情熱を注いだのでした。私心ない夢のある活動に、こころ動かされていく人々の「絆」が実り、グエン・ファン・チャン生誕120年に当たる2012年の年初をはさんで約4ヵ月間、金沢21世紀美術館のギャラリーの一室で、修復された3点のみを展示した展覧会が開かれたのです。

 その経緯は当サイトの2011年12月7日号で詳しく伝えています。3年半にわたって中村さんの活動を見守ってきた私は、この一部始終を新刊に綴ったのでした。この本の末尾に、中村さんは、「私たちの希望は、今回の修復と展示から、修復を待つ多くの危機に瀕したベトナム固有の美術遺産を救うための道を拓くことにあります。こうした現実に少しだけでも目を向けていただければと願うばかりです」と語っています。

 修復に当たられた岩井希久子さんは、「これからの日本は、独自の文化の力で世界に貢献するべきではないかという思い、芸術が私たちの心のよりどころであるはずではないかという思い、そんな思いを共有できる方々との出会いをこのプロジェクトはかなえてくれたのではないでしょうか」コメントしています。

 私は物語の最後に、「中村さんの修復プロジェクトの旅は、なお終わらない」と記しましたが、これを裏付けるように、その後も取り組みが続いています。中村さんと修復家の岩井さんは4月にハノイに赴きました。そして次の修復作品の覚書を遺族で娘のグェット・トゥさんと取り交わし、絹絵2点とドローイング8点を持ち帰りました。絹絵の1枚は代表作で、中村さんを魅了した卓上カレンダーの作品です。

 訪問時、ベトナム文化省美術局長をはじめ、ベトナム国立美術館館長らと会ったそうです。美術館所蔵の作品についても修復や保存、修復技術研修、展示環境整備などの協力要請があったとのことです。中村さんにとっては、今後の大きな課題となりました。

 ハノイ訪問には美術照明の藤原工さんが調査のため同行していて、ベトナム国立美術館に展示されているグエン・ファン・チャン作品の照明を、美術館からの要請で急遽調整を行ったそうです。また、当日はベトナムの新聞やテレビ局VTV1の取材を受け、5月2日に現地で放映されたのでした。

 ベトナムでの調査に続き、グエン・ファン・チャンの作品が数多く遺されているフランスでの調査に乗り出す考えです。フランスの作品の方が、保存状態も良いとの情報もあり、今後の修復の指針になるとの判断です。

 一方、グエット・トゥさん所持の作品については、今回は代表作を含む約4点を修復する予定で、この第二次の修復が完了した時点で、来年にはベトナムから国立美術館や個人蔵の代表作も持ち込み、小規模ながら東京で展覧会を開催する計画も立てています。


■新刊『ベトナム絹絵を蘇らせた日本人』

■国家に貢献した人が眠る墓地にあるグエン・ファン・チャンの墓

■ベトナムのテレビ局VTV1で放映された中村勤さん

■同じ番組で紹介された修復家の岩井希久子さん
見事に生きた先達の遺志、後世へ継承

 本書では、ベトナム絵画修復プロジェクトを中心に、私が新聞社時代からリタイア後もご厚誼をいただきながら、故人となった平山郁夫画伯や指揮者の岩城宏之さん、作家の立松和平さんらの遺志がどのように継承されているのかをリポート。日本を文化のプラットホームにと、「文化」立国を掲げる中山恭子参議院議員にインタビューしています。

 文化財の赤十字構想を提唱した平山郁夫画伯は、「バーミアンの大石仏のように、一度破壊されれば、二度と同じものは生まれてきません。優れた文化財は継承されることによって生き続けるのです。それは古くなっても美しいのです。その『美』を赤十字の心で救済することは、国境や民族、宗教の壁を乗り越えて急務なのです」と、訴えていました。

 また「オーケストラ・アンサンブル金沢」を創設した指揮者の岩城宏之さんは生前、「永久に日本一を続けることは、途方もないほど難しいことだ。初代音楽監督のぼくが去り、あるいはこの世から消えた後も、金沢の文化として永遠に発展しなくてはならない」との遺志を伝えています。

 さらに作家の立松和平さんは、知床に地元の有志らとお堂を造り、毎年法要を行ってきました。歿後も続けられていますが、立松さんは、「自然の生態系の上に、人間の生態系がのっている。麗しくも豊かな生態系の上に生きていることをまず認識し、その自然のありように最大の敬意を払いつつ、学び、生きることではないだろうか」と、知床への思いを語っていて、その精神は生き続けています。

 本書のあとがきで、「取り上げることがかなわなかった新藤兼人さんも、私が夢を紡いできた一人だ」と記し、最後の作品『一枚のハガキ』を紹介させていただいた新藤監督は、5月29日に老衰で亡くなられました。100歳でした。

 朝日新聞社時代に戦後50年の節目に被爆地・ヒロシマをテーマにした映画制作を企画し近代映画協会へ何度となく通ったのでした。ところが新聞社の経営判断で挫折した苦い思い出がありました。しかしその後も、私の出版記念の集いに出席されスピーチをいただくなど、目にかけていただきました。

 葬儀・告別式が6月3日、東京・増上寺光摂殿で営まれ、私も参列しました。たまたま山田洋次監督が隣席でした。山田監督には2度ほど、講演していただき、奈良まで同乗したこともあります。「新藤さんはヒットするしないを考えずに生涯、映画を撮り続けた人。僕なんかには想像できない苦しい思いをしてきたのでしょう」と、と故人を偲んでいました。

 告別式では、俳優の柄本明さんが、遺作となった『一枚のハガキ』の衣装合わせの際、監督がおならを2度したエピソードを明かし、「人間は生きてると仕事もするんですけど、おならもするんですね、監督。お疲れさまでした」と、遺影に語りかけたのが印象的でした。

 親族を代表して喪主で次男の新藤次郎近代映画協会社長は、「石つぶてが飛んできても前を向いて歩いた新藤兼人の映画作りの姿勢を見本にして、これからもやっていきたい」と時折声を詰まらせながら挨拶をされました。

 新藤さんの遺した「生きているかぎり生きぬきたい」は私の座右の言葉です。見事な人生でした。あらためてご冥福をお祈りします。


■廃墟と化したサラエボ戦跡を描く平山郁夫画伯  
(1996年、文化財保護・芸術研究助成財団提供)

■バッハの「G線上のアリア」が献奏された岩城宏之追悼演奏会  
(2006年7月、石川県立音楽堂 石川県音楽文化振興事業団提供)

■大自然の中に建つ知床三堂(故立松和平さん提供)

■新藤兼人監督の葬儀が営まれた増上寺

■99歳で撮った『一枚のはがき』時の遺影が飾られた
新藤さんの祭壇
「絆」で紡ぐ故郷再生のまちづくり

 本書のエピローグは、私の故郷での地域再生活動を通し、「絆」の大切さと地道に生きることのささやかな幸せを伝えています。私の生まれた家は、別子銅山の山裾の新居浜市角野地区にあり、小高い山にそそり立つ一本の「えんとつ」を朝な夕なに眺めながら育ったのでした。銅山の閉山から約40年になり、御用済みとなった煙突ですが、地域住民にとっては120年の歴史を刻む故郷のシンボルであり、ランドマークなのです。

 「えんとつ」など産業遺産を活用したまちづくりは、このサイトの2009年の2月23日号と12月1日号、2010年10月28日号などで随時書いています。これまでに市民有志らが「えんとつ」山への登山道整備や植樹、伝統の芸能披露や写真展など各種イベントを開催など活発な活動を続けています。

 新刊でも取り上げています郷土で初めての本格的なオペラ公演となった歌劇「天空の町 伊庭貞剛―別子の山」の公演は、5月26・27の両日、新居浜市市民文化センター大ホールで催されました。NPO法人東京オペラ協会の石多エドワードさんが台本・作曲、舞台監督も務め、琴や和太鼓、尺八や笛など和楽も取り入れ、荒れ果てた別子山に植林した伊庭の思いを多様に表現していました。とりわけ地元の少年少女合唱団と一般合唱団から約100人を募り、小学生から70歳までの市民が練習を重ね参加したのでした。

 石多さんの母はスペイン系フィリピン人のこともあって、オペラでの国際交流がライフワークとなっています。一市民から「100年以上も前に別子の山を緑に復活させた伊庭貞剛を主人公にした歌劇を創作して、世界各地に届けてほしい」との依頼を受けたのです。感銘した石多さんは、何度も別子に足を運び、地元の人々とも交流し、構想をあたため5年の歳月をかけ創作を手掛けたと言います。

 私も帰卿し3時間におよぶ公演を観劇しました。市民参加で「よくぞここまで仕上げたものだ」と感動しました。その夜の打ち上げ会にも出席し、出演者たちのスピーチや合唱を聞いていて胸が熱くなりました。子どもたちは興奮と喜びにあふれていました。そしてこうした試みが故郷の、「絆」をより深めるのだと確信しました。

 最後になりましたが、中山恭子参議院議員とは多忙な議員活動の時間を割いて、2011年12月初めと2012年1月末の二度にわたってインタビューに応じていただきました。

 その中で、「日本を文化のプラットホームに」との構想を示し、文化の交流する「場」の創設を提言しています。その考え方は、世界の人々が出会う「場」であり、文化を持ち込み、持ち帰る「場」であり、共生社会への国際貢献の「場」と位置づけています。その上で、日本に暮らす一人ひとりが、「文化のプラットホーム」の担い手となることが、「開かれた日本」への道だ、と強調しています。

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 新刊は「3・11」後、普遍的な価値とは何か、自らの生き方も問い直し、精魂込めた一冊に仕上がったと自負しております。

 お申し込みは最寄りの書店か、ネットでも受け付けています。ただし出版元の株式会社 三五館(電話03-3225-0035、FAX03-3225-0035)へ「ぶんか考を見た」と、ご注文いただければ、定価1680円のところ特価1600円(送料・税込み)です。


■「えんとつ山」の山道に植樹をする中学生
(2012年3月妻鳥俊彦さん撮影)

■歌劇「天空の町」の練習風景(星川陽二さん撮影)

■「天空の町」のフィナーレ(新居浜文化センター大ホール)

■出演者らで盛り上がる打ち上げ

■中山恭子参議院議員とのインタビュー

白鳥正夫の
えんとつ山
ぶんか考

一途な生き方をテーマにした一冊の本