白鳥正夫の
えんとつ山
ぶんか考


 

 
 
 

 「美を描き、美を救う」活動を精力的に続けられていた平山郁夫画伯が昨年12月2日に逝去されたことは、多方面に衝撃をもたらせた。2月2日に東京で「お別れ会」が厳かに営まれ、在りし日の平山先生を偲んだ。朝日新聞社時代から文化事業全般にご指導と助言をいただいていた私にとって無念で、心から哀悼の意を捧げたい。日本画壇の第一人者で文化財保存活動に献身した平山先生の功績を追悼するとともに、私がご厚誼を得た数々の薫陶を記し、「平山精神」の一端を伝えたい。
 財団法人日本美術院と東京芸術大学の主催で営まれた「お別れ会」には、東京都内のホテルに2000人余が参列し、献花した。生前の幅広い活動もあって、美術界だけでなく政財界や各国大使館などからも多くの関係者が詰めかけた。祭壇には遺影の下に、シルクロードを描いた群青の砂漠に月の作品と対照的に明るく輝く太陽を拡大複写した屏風が置かれ、文化勲章や天皇、皇后両陛下からの供花などが飾られたていた。私も偉大だった平山先生の功績を偲び合掌した。
■故平山郁夫画伯
 私が平山さんに初めてお会いしたのは1993年11月に遡る。朝日新聞社主催の「アンコール・ワットの保存救済」のシンポジウムで、記念講演をしていただいた。95年に企画した「ヒロシマ21世紀へのメッセージ展」では、画伯が描いた代表作の「広島生変図」を所蔵先の広島県立美術館から借用した。
 原爆によって一面火の海に化した広島の街の中に原爆ドームがシルエットのように浮かび、天空には不動明王が描かれた作品だ。被爆者としての画伯の平和への思いが深く伝わってきた。その後、何度も平山郁夫展に関わり、平山芸術に触れながら、人間としての歩みも知ることになった。
  1997年7月、私は初めて鎌倉の平山邸を訪ねた。99年の朝日新聞創刊120周年記念プロジェクト「シルクロード 三蔵法師の道」の企画推進のための協力要請だった。展覧会、学術調査、シンポジウムの三本柱からなり、総監修やシンポの基調講演などを引き受けていただいた。平山先生は薬師寺に奉納する玄奘三蔵をテーマにした大壁画を制作中だったこともあり、多くの助言と指導を受けた。
■盛大に営まれた
「お別れの会」(東京)
 平山先生には、画業での数々の業績だけではなく、人類が残した文化遺産の保存修復に取り組むもう一つの顔があった。玄奘三蔵に導かれながら踏破した平和希求の旅の現場から生まれたのが「文化財赤十字」構想だ。北朝鮮の高句麗壁画古墳の世界遺産指定のため何度も訪問し、2004年の登録に貢献された。登録前に開催した「高句麗と東アジア」をめぐるシンポジウムにも出席していただいた。 
■改装された
平山先生の実家
(尾道市瀬戸田町)
 
■「平成の洛中・洛外図」の
スケッチをする平山先生
■故郷を描いた「燦・瀬戸内」

  新居浜文化協会が55周年を迎えた2004年11月、画伯を招いて記念講演会を催された。この企画のお手伝いをし、「地球市民の時代へ文化貢献」のテーマで対談をさせていただいた。その一部を抜粋しよう。(平山先生の敬称略)


白鳥 平山さんは画家であると同時に、ユネスコ親善大使として国際的な文化活動をされています。その信念の強さに感動しております。こうした平山さんの生き方に大きな影響をもたらせた玄奘三蔵の話から聞かせてください。玄奘の天竺(インド)への道のりが17年、帰国後に経典を翻訳したのが20年です。平山さんはそれ以上の年数をかけて芸術と平和への道を追い求めてこられたのですね。
平山 被爆後、27歳で後遺症に苦しんだ時に、平和を求めてインドへ求法の旅をした玄奘三蔵の姿が目に浮かびました。そして、玄奘三蔵が経典を持ち帰る姿を第44回院展に「仏教伝来」として出品し、高い評価を得ることができました。その後は、玄奘の辿ったシルクロードに強い思いを馳せ、仏教東漸の道を自らも辿るようになりました。タクラマカン沙漠の49度の暑さからエベレストのマイナス20度以下までの極限も体験しました。
   
■平山先生との対談       ■薬師寺の玄奘三蔵絵殿
(2004年、新居浜)        に奉納された「大唐西域壁画」
白鳥 まさに「平成の玄奘さん」ですね。平山さんにとってライフワークともいえた大きな仕事は、薬師寺の大唐西域壁画です。2000年の大晦日に最後の筆を入れ、21世紀に一般公開されました。玄奘三蔵求法の旅の7つの場面を、13面にわたって描いた延長49メートルの超大作です。そのご苦労などを振り返っていただけませんか。

平山 事の始まりは、亡くなられた高田好胤管長が1976年、「玄奘の徳を讃えるために、伽藍を造るので協力してほしい」と懇願されたのです。私は引き受けるにあたり「教官の仕事もあるので、今世紀中にということと、壁画は寄進させて欲しい」と条件を付けました。
白鳥 平山さんが足を踏み入れられたアフガニスタンは文明の十字路といわれています。その地にあり玄奘も仰ぎ見たと言うバーミヤンの大石仏は、タリバーンによって2001年3月に破壊されました。破壊前に訪れ、作品を遺されている平山さんにとって、どんなお気持ちだったでしょうか。
平山 大石仏が実際に爆破され、その映像を見た時には衝撃を受けました。それまでも何度か爆破予告され、その度に緊急アピールを出してきただけに、まさか世界の人たちの声にそむいてまではと信じていたのですが…。一国の統治者が自国の財産である世界的な文化財を自ら破壊する暴挙に出たのは、近代の歴史ではかつてなかったことです。
白鳥 その後のアフガン復興にも貢献されていますが、バーミヤンの古代遺跡群は破壊されてから世界遺産に登録されたのですね。そうした経緯もお聞かせください。
平山 ご存知のように、2001年末にアメリカのアフガン侵攻をきっかけにタリバーン政権が崩壊し、アフガン内戦が一応の終結をみました。遺跡の修復と保全に対して世界的な支援の機運が高まり、まず2002年春に日本政府が70万ドルを拠出してユネスコ日本信託基金を設立しました。ユネスコと共同で修復と保存に乗り出しました。遅ればせながら、2003年に危機遺産として世界遺産に登録されたのです。
白鳥 世界遺産に登録されたこともあり、復興支援のレールが敷かれたのですね。ただ現地からの声として大仏を復元し観光開発への動きもあると伝えられています。どのように思われますか。
平山 日本からも研究者が入り、主導的な立場に立てると思います。アフガンの文化財が流出し、いわば「文化財難民」として日本にも数多く入ってきております。現地の博物館が再建した時には、返還すべきだと思います。しかし大石仏の復元には反対です。原爆ドーム同様、人間の愚かな行為を後世に伝える「負の遺産」とすべきです。復元するお金があれば約600万人と言われている難民の生活を救済に役立てる方が先です。
白鳥 アフガンの紛争後、今度はイラクでの戦争になりました。バグダットにある国立博物館で文化財の略奪などが起こりました。あの時、アメリカは国益を守っても文化財の危機を放置したと非難されました。
平山 戦争は人の心を荒廃させますね。人類共通の文化遺産を守る最大の手段はやはり平和だと痛感しました。カブールもバグダットも大きな痛手でしたが、皮肉なことに、博物館から略奪し、盗掘した犯罪者のおかげで、貴重な文化財は残されたのです。様々なルートで欧米や日本へと流出し、美術愛好者の手に保管されたのです。
白鳥 一方、平山さんは北朝鮮の高句麗遺跡の世界遺産登録にも長期間取り組まれていますね。北朝鮮とは拉致問題や核開発の問題などもあって日本は国交すら回復しておりません。国際的な文化貢献が求められている時に、アフガンやイラクの教訓をどう生かすか、日本の姿勢も問われています。
平山 私は1967年に「卑弥呼壙壁幻想」という作品を描きました。耶馬台国の女王を幻想的に描こうと時代考証で求めたのが、北朝鮮にある高句麗古墳群の中にある壁画の女性像でした。その後1972年になって、奈良の飛鳥で発見された高松塚古墳の「飛鳥美人」が同じ服装をしていたのに驚きました。日本文化の源流を求めるシルクロードの旅で、高句麗の地が空白になっていたのです。1997年、ユネスコの調査団長として、北朝鮮を初めて訪問し、高句麗の壁画古墳を見ました。その規模といい、十分に歴史的価値がありました。それ以来、毎年のように北朝鮮を訪れ、やっと2004年に世界遺産への登録が実現しました。
白鳥 文化遺産は絶対的なものなのに、その国の方針で登録が遅れるのですね。政治を超えた文化の力が必要だと感じました。北朝鮮での世界遺産登録に向けた取り組みの背景には「バーミヤンのように遺跡は壊されては元に戻らない」という、平山さんの危機感があったと思われます。
平山 ユネスコの世界遺産の指定は、その国の主権を尊重する形で進めているわけです。まずその国が条約を批准しなければなりません。と同時に、登録されれば保護し維持していくため整備をしなければなりません。平壌の高句麗でも保存センター建設が必要で、資金的な援助をします。
白鳥 最近の動きについて触れてきましたが、平山さんは、これまでに中国の敦煌をはじめカンボジアのアンコール・ワット修復にも多大な貢献をされていますね。
平山 私は1979年に、中国建国30周年の記念事業の一環として「平山郁夫日本画展」が北京で開催された際、鉄道とバスを乗り継ぎ初めて敦煌を訪れました。5日間を要しましたね。4世紀に始まって14世紀までの約1000年間にわたって生み出された1000以上もある窟の塑像や壁画の芸術性に感動しました。でも一方、その荒廃ぶりに愕然としたのです。
白鳥 平山さんのお力添えで、「砂漠の美術館─永遠なる敦煌」展を1997年2月に神戸市立博物館で開催することができました。敦煌展は敦煌研究院の設立50周年を記念して開催されたもので、東京、福岡と回り神戸が最終会場ですが実務責任者でした。さて敦煌の次はアンコール・ワットについてもお聞かせください。
平山 ここには1970年1月に足を踏み入れたのですが、内戦に突入してしまいました。ジャングルの中にクメール王朝の遺産が埋もれていました。それから20年後、1991年にアンコール遺跡救済委員会が発足し遺跡調査の部会長に就き、学術調査団として現地入りしました。遺跡は内戦以降、放置され風化や盗掘などによって荒廃しきっていました。遺跡の危機が叫ばれ、92年世界遺産に登録されたのです。
白鳥 シルクロード・奈良国際シンポジウムが1993年、「アンコール遺跡の保存と救済」をテーマに開かれました。その後、97年から98年にかけては「アンコール・ワットとクメール美術の1000年」展が催されました。私はいずれもスタッフの一員でした。これらの企画事業も平山さんの支援があったればこそ実現できたのでした。
平山 日本をはじめ世界各国の協力を得て修復活動が進められ、2004年に危機リストから解除されました。しかし広大な遺跡は継続的な保存への取り組みが必要です。
白鳥 そのような背景もあり、1988年に文化財保護振興財団(現)文化財保護・芸術研究助成財団)を設立されたのですね。敦煌やアンコール・ワットなど世界の文化遺産の保護の他、国内のみでなく外国の美術館などに所蔵され、傷みの激しくなっている貴重な日本の古美術の修復、更には、現在、アフガンやイラクなどから流出した古代の美術遺産の救済保護に尽力されておられます。ここで平山さんが提唱されている「文化財赤十字」の構想について詳しくご説明ください。
平山 「文化財赤十字」構想とは、第一次世界大戦中、傷ついた兵士を敵味方の区別なく救った「国際赤十字」と同じ精神です。私が長年にわたって踏破してきたユーラシア大陸の東西文化交流の舞台には、さまざまな民族が、誇りと精神性と美意識を傾注して創出し、今に伝える質の高い文化財と文化遺産が数多くあります。しかしその多くが自然の脅威と、戦乱や盗みなど人為的破壊にさらされ、崩壊の危機に瀕しています。 バーミヤンの大石仏のように、一度破壊されれば、二度と同じものは生まれてきません。優れた文化財は継承されることによって生き続けるのです。それは古くなっても美しいのです。その「美」を赤十字の心で救済することは、国境や民族、宗教の壁を乗り越えて急務なのです。
白鳥 こうした「平山精神」を次代にどう継承していけばいいかをお聞かせ下さい 。
平山 私に、あなたは画家なのだから絵を描くことに専念すればという方も多くいます。とはいえ時代の使命感というべきものがあります。玄奘三蔵は真の仏法を伝えようと、インドまで旅をし、帰国後も仏典の翻訳に生涯をかけました。その無私の精神が、後に後継者を生み、多大な影響を与え、海を隔て日本の仏教普及にも貢献しました。私は歩んできた道にいくつかの種をまいてきたのです。必ず育ってくれるものと信じています。
白鳥 最後にこれからの若い人たちにメッセージをお願いします。
平山 私はこれまでユネスコの仕事や絵の取材のために、世界の多くの遺跡を訪ねました。その度に、この遺跡にたずさわった建築家や彫刻家、あるいは画家といった人々はどんな人だったのだろうか、と思いました。遺跡は民族の興亡の舞台で、壮大な歴史のドラマの象徴です。しかし国破れ、時を経て、造られた時代の文明と歴史と文化を伝える生きた資料でもあります。そして遺跡は、自然のなすがままに崩れ、やがては土に返ってしまいます。世界にある多くの遺跡は戦争や自然災害、開発、盗掘などで危機に瀕しています。遺跡は様々な歴史のロマンを私たちに語りかけてくれます。この人類共通の文化遺産を守ることは、大いに意義のあることです。それぞれの時代に、それぞれの遺跡にたずさわった人々の努力と情熱を次代に伝えること、それが今を生きる私たちの責務だと、信じて疑いません。
 
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「文化財赤十字構想の意義 「平山精神」は永遠に」